数々の事件や災害現場を報道してきた東海林のり子さん。芸能ニュースから凶悪事件まで追い続けてきましたが、ある大災害を機に、リポーター引退を決意します。(全4回中の2回)

同期のなかでいちばん才能がないのは自分のはずが

東海林のり子
子育てをしながらリポーターとして多忙な時期を過ごした

── リポーターになって以降、日航機墜落事故やオウム真理教など大事件で感じたことを伝え続けてきた東海林さんですが、働き続けていくうえでどのような苦労があったのでしょうか。

 

東海林さん:私は新卒でニッポン放送のアナウンサーとしてキャリアを始めたのですが、自分より明らかに優秀だと思っていた同期の女性たちが、結婚を理由に次々と辞めていく姿を見てきました。彼女たちが辞めて「同期のなかでいちばん才能がないのは自分だ」と思っていた自分がそれゆえに頑張って長く働き続けたことは、今振り返ってみるとおもしろいですね。

 

事件や事故の取材は、圧倒的に男性が多い現場です。だからといって別に男性に張り合っていたわけではないのですが、被害者の遺族の心情に寄り添う現場などでは「男にはここまでの取材はできないだろう」という自負も少しはありましたね。

 

── テレビの世界は今以上に男社会だったかと思いますが、体力的なつらさはありましたか。

 

東海林さん:私、昔からずっと風邪もめったに引かないくらいの健康体だったので、病気とはずっと無縁でした。緊張感のある現場が多かったから、興奮状態がずっと続いていたせいもあるのかもしれない。ただ、はっきりと診断を受けたわけではないですが、更年期障害のような症状出ていたのはつらかったですね。私の場合は顔のほてりやのぼせ、いわゆるホットフラッシュの症状がひどくて一時は苦労しました。若い子から「東海林さん、それ更年期障害ですよ」と言われるのがまた悔しくてね。もう絶対に乗り越えてやると思いながら乗り切りましたよ。

 

── 1995年、阪神・淡路大震災をきっかけに現場を離れる決断をされています。震災の理由以外にも何か思うところはあったのでしょうか。

 

東海林さん:阪神・淡路大震災での現地とスタジオの温度差を感じたことは現場を離れた大きな理由のひとつです。これ以上にひどい災害はもうないだろうなとも感じましたし、殺人事件から大災害まで、あらゆる事件の現場に立ち続けてきた自分はリポーターとしてはもう60歳という年齢的にもやりきったのかもしれない、という思いもありました。

 

でもそれらとは別に実はもうひとつ、現場を離れた理由があるんです。それは同業者からのやっかみ。嫌がらせがあまりにもひどくて、私の精神がもう限界を迎えてしまったんです。何気ない雑談に見せかけて繰り広げられる嫌味や、周囲の人たちまでを巻き込んでの神経戦が長期にわたって続くことに疲れてしまったんですね。