音楽バンド「HY」のメンバーである仲宗根泉さんは、第二子妊娠を公表後にお子さんの死産を経験します。「最後まで奇跡を信じていた」という胸の内を伺いました。(全4回中の2回)
息子の臓器がたりないことがわかって
── 仲宗根さんには娘さんがいらっしゃるそうですが、今からおよそ7年前にお子さんを死産されたことがあったと伺いました。
仲宗根さん:妊娠6か月のときにお腹にいた息子の臓器がたりないことがわかりました。先天性のものだったそうなのですが、医師からは「産まれたらすぐに亡くなってしまうし、このまま産まずにいたら母体が危なくなる」と告げられました。

── 妊娠報告もされたあとだったそうですね。
仲宗根さん:仕事の都合もあるので、第二子を授かったことはすでに公表していました。可能性がどんなに低くても、子どもの命を諦めたくなくて。なんとか命を救うことができないかと、離婚前の夫と詳しい医師を訪ねて日本中を探し回りました。でも、誰に聞いてもやはり言うことは同じで。「子どもを助けると言っても産まれてから20分、呼吸ができるかどうか。このまま2人とも危険な状態にさせたまま妊娠を続けるか、亡くなってしまう確率が限りなく高い子どもを諦めるか」と。
── お話を伺っていて胸が締めつけられそうです。
仲宗根さん:どの医師からも子どもは早い段階で命を落としてしまうと言われました。それでも自分で我が子を生む必要があります。「生まれた瞬間に、オギャ〜という産声が聞こえません、すぐに亡くなってしまいます」と言われていたのですが、最後の瞬間まで実感はあまりありませんでした。手術の日も、自分のお腹を見るといつもと同じ妊婦姿でしたし、普通に出産するような感覚でいました。
産む部屋も、周りはこれから出産する人たちの部屋と同じ並び。そのなかで数部屋だけが私のような死産などをする方用の部屋でした。廊下で待っていたとき、私の隣の部屋に泣きながら女の人が入っていって、そのあとに看護師さんが小さな箱を持っていました。赤ちゃんを入れる箱ですね。それを見た瞬間、「もしかしたらこの方は、私と同じ手術をするのかな」ということが頭をよぎって、そこで初めて現実になったといいますか、今から起こることへの恐怖を感じたのは覚えています。
── 産まれてすぐ亡くなってしまうと言われている我が子を、通常の出産と同じように産むんですね。
仲宗根さん:促進剤を使うので陣痛も起きますし、通常の出産と同じように分娩台に乗って産みます。私の心拍と、赤ちゃんの心拍がモニターに写っていて、子どもの心臓がまだ動いているんですよ。看護師さんから「お母さん、これが赤ちゃんの心拍です。今は動いています。でもあと1回いきんだら産まれてくるので、そうしたらこの波形が止まります。最後のお別れになりますが、大丈夫ですか」と聞かれました。この時点でも、自分のなかでは、どこかで奇跡が起きるんじゃないかと思ってしまって。次のいきみで産まれて、子どもの産声が聞こえて喜んでいる自分を想像するんです。

── そうですよね。最後まで望みは捨てたくないです。
仲宗根さん:看護師さんの呼びかけには「大丈夫です」と答えたのですが、現実に奇跡は起こりませんでした。「やっぱり奇跡は起きないんだ」と打ちのめされて。生まれた瞬間に亡くなるので、もちろん蘇生もさせてもらえません。産んだあとで何もできることはないのですが、看護師さんが気をつかってくださって、「お子さんと2人にしますね」と言ってくださり、部屋から出ていきました。そのあとは泣きながらずっと赤ちゃんを抱っこしていました。
産まなければ生きていた命を、産みたくないのに産まなければならない。私が産むので、自分が殺してしまうように感じてしまって、ものすごく苦しかったです。長女の出産の際は緊急帝王切開で、途中まで陣痛はあったのですが、産まれるときは麻酔が効いて眠っていたんです。目覚めたら娘がいた、という出産だったので、息子のときが自分の意識があるときに子どもを産むという初めての経験でした。