保護司になる前から「ヤッホーおばさん」と呼ばれて

── 犯罪や非行をした人の立ち直りを支える「保護司」の活動を始められたきっかけは。
中澤さん:保護司になったのは平成10年、57歳のときです。同じ団地に住んでいた保護司の方が、私の普段の生活や活動を見て「やってみませんか」と推薦してくださったんです。私は保護司の存在を知らなかったのですが、誰かから電話がかかってくるとすっ飛んで行って相談にのったり、お腹を空かせた子どもたちにカレーを作ったりしていましたから、自分が日常でやっていることが組織になっていて、法相から委嘱されていると知ってびっくりして。二つ返事でしたね。
── ご家族の反応はいかがでしたか。
中澤さん:主人は私の性格をわかっていますから「お母さんに合っているんじゃない?」と言ってくれました。でも娘は反対しました。「犯罪をした人を自宅に招いて、たとえ100人の人がお母さんをいいと思っても、1人に恨まれて何かあったらどうするの」と。「そんなことないよ」とのらりくらりと娘の怒りを鎮めて、結局は引き受けました。20年間務めましたけれど、家族が怖い目にあったり嫌がらせを受けたりすることはありませんでした。
当時は、保護司をしていることは家族以外には話してはいけないという決まりがあったので、知っていたのは主人と娘だけで、親にも隣近所の人にもいっさい話しませんでした。「誰も知らないところでがんばっている」と思えるのはうれしかったですね。
でも5年くらいたったら方針が変わって「保護司であることを公にして、犯罪や非行を出さない街づくりのために活動してください」と言われるようになったのです。保護司として地域の行事や学校にも顔を出すようになって、忙しくなりました。

── 「犯罪を防ぐ街づくり」とは、具体的にはどのようなことをするのですか。
中澤さん:私は「声かけ」だと思います。保護司になる前から、私はよく近所の子どもたちに声をかけていました。名前を知らない子にも「ヤッホー」「ヤッホー」と声をかけるから、一時期は「ヤッホーのおばさん」と呼ばれていたの(笑)。大人の方にも「ヤッホー、買い物?」ってね。昔は小さい子をおんぶしたり抱っこしたりして必死になっているお母さんに「重いね、大変だね」と声をかけたり、電車の中で泣いている子にはあめ玉を渡したりね。今そんなことをしたら不審者だと思われてしまいますけどね。
「声かけは種まき」だと私は思っています。その種は雨に流れちゃうかもしれないし、どぶに落っこっちゃうかもしれないけれど、声をかけていると、いらだっている相手がヒョイと気持ちの方向を変えてくれる雰囲気を肌で感じることがある。ちょっと声をかけるだけで、世の中はいい方向へ回っていくと思っています。
子どもたちによく言うのは、「何かあったときに話を聴いてもらって相談にのってもらえる大人を探しておきなさい」ということ。親にも言えない悩みは必ずあるはずだし、同級生に相談しても答えはだいたいひとつなの。人生を余分に生きている人は、違った角度から何かいい案を出してくれるから。親戚でも近所のおじさんでもいいから、話せる人をみつけておくといいですよね。
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保護司として20年間、120人以上の子どもたちを支えてきた中澤さん。77歳で保護司を引退し、現在は自宅近くでカフェを営んでいます。かつてお世話になった子たちが中澤さんに会いに来るなか、重い事件を起こしてずっと気がかりだった子とも20年ぶりに再会。「こんなに喜んでくれるなら、もっと早く会いに来ればよかった」と言われ、2人でタバコを吸いながら涙したそうです。
PROFILE 中澤照子さん
なかざわ・てるこ。古賀事務所に勤務し、歌手・小林幸子の初代マネージャーを務める。保護司として20年間活動し、2018年に藍綬褒章を授与される。引退後、東京都江東区に「Café LaLaLa」を開業。YouTubeチャンネル「華麗なる更生族」を運営する。
取材・文/林優子 写真提供/中澤照子