犯罪をした人が立ち直れるように地域で支える民間ボランティア「保護司」。57歳でこの職につき、20年間に渡って120人以上のサポートをした女性がいます。その女性、実は歌手・小林幸子さんの初代マネージャーだったのですが── 。(全2回中の1回)

小林幸子さんとは姉妹のようだった

中澤照子
中澤照子さん

── 小林幸子さんのマネージャーをされていたのはいつごろのことですか。

 

中澤さん:19か20歳のころから10年間です。役者をやっている親戚から「古賀政男さんの事務所の人がたりないから」と誘われてね。当時の私はモダンジャズを聴かせる喫茶店に通って、よくわからないのにジャズを聴いていたものだから「歌謡曲は好きじゃない」なんて生意気なことを言ったんですけれどね。「お茶くみでも電話番でもいいから」と引っ張られて、古賀先生の事務所で働くようになりました。初めのうちは何もわからなくて、古賀先生自身から電話がかかってきたのに「どちらの古賀さんですか?」と聞いてしまったことがありました。

 

そのうち古賀先生に「シャキシャキした子だから、マネージャーの仕事を覚えるように」と言われて、レコード会社や出版社へのメッセンジャーガールのようなことをするように。先生は、小林幸子がデビュー前に出演して勝ち抜いた歌番組の審査委員長をしていて、「この子はダントツだ!」と見抜いて歌い手にする心づもりがあったんですね。当時は男性のマネージャーばかりでしたから、「女の子には女性のマネージャーがいいだろう」と、私は先生のレールにのせられたんです。

 

小林幸子は歌手になるために、9歳で新潟から東京へ出てきたんですよ。東京に親戚もいないし、当時は新幹線も走っていなかった。よくぞ1人で出てきましたよね。新米マネージャーの私を頼るしかないし、私はこの子を必死になって守るしかない。母親みたいな、お姉さんみたいな気分でした。仲よくならないわけがなかったんです。

 

私が仕事を辞めてからも、悩みごとがあるとうちへ来てくれたり新居が完成したときには招いてくれたりして、折々に会っています。今でも60年来のおつきあいができているのは、お互いに当時のいい印象があるからでしょうね。

めんどう見のいい母と交わした3つの約束

若き日の中澤照子、小林幸子
結婚し、専業主婦へ

── マネージャーの仕事を辞められてからはどうされていたのですか。

 

中澤さん:29歳のとき、同じ事務所で働いていた中澤と結婚して専業主婦になりました。娘を育てながら、頼まれて児童館でときどき臨時の先生をしたり、親から育児放棄されているような子たちにごはんを作ったりしていました。今でいう「子ども食堂」ですよね。団地の階段でひとり寂しそうにしている子とか、なんとなく人と目を合わせたくなさそうな子とか、自分のアンテナに引っかかるとほうっておけないんですよね。そういう性分なんです。

 

思い返せば、両親もめんどう見のいい人たちでした。商売をしていた父親はいろんな人の相談にのっていましたし、母親は勝手口で近所の人の泣き言を聞いたり、もめごとの仲裁をしたりしていました。家にはよく親を亡くした子たちが集まっていて合宿所みたい。それが当たり前だと思って育ったんです。

 

── 懐が深くてめんどう見がいいのはご両親ゆずりなのですね。

 

中澤さん:母親には「人に喜ばれることをしたからって、口に出しちゃダメだ」とよく言われました。私が黙っているのに「照子ちゃんにこうしてもらった」と人から親の耳に入ったときは喜んでくれましたね。子どものころ、お風呂屋さんへ行くと近所の長屋の子たちがいっぱい来ているから、小さい子の頭を洗ってあげたり背中を流してあげたりして大忙しだったんですよ。それから何年もたってから、母親がお風呂屋さんへ行くと誰かしらが「照ちゃんに背中を流してもらった」と言いながら母の背中を流してくれる。「お前がしたことが、私の背中に戻ってきたよ」と母は喜んでくれました。

 

母親とは「物事の善悪を見極めなさい、人に優しくしなさい、健康でいなさい」という3つの約束をしました。ベランダから星を見ながら「お母さん、この歳まで約束を守ってるよ」と話しかけています。この歳になると、3つ目がいちばん大変ですけれどね(笑)。