「母にはなんでも相談していたし、母の言うことは絶対だった」と語る鈴木砂羽さん。しかし、次第に自分と母の関係に違和感が募っていき── 。(全3回中の2回)
「私はママ、ママは私」個人の境界線が曖昧で

── 鈴木さんが小学5年生のときにご両親が離婚されて以降、お母さんとふたりで暮らしていたとのこと。鈴木さんから見て、どんなお母さんでしたか?
鈴木さん:今でこそ70歳を超えて落ち着きましたが、すごく強くてパワフルな人だと思います。子どものころからいちばん身近にいる女性として、恋愛や結婚、仕事にも大きな影響を受けてきました。
── お仕事でいうと、どんなことでしょうか?
鈴木さん:私が20、30代のころ、テレビや舞台にたくさん出させてもらうようになると、「あのときの答え方、ちょっとどうかな」「あの髪型と衣装は合っているの?」「メイクはもっと薄くしたほうがいい」など、母なりに気がついたことをすぐに伝えてくれました。私は母の感性や考え方が好きだったので、言われた通り母のアドバイスを参考にし、実践して。私も母に、「マネージャーとうまくいかない」「演技でここを褒められた」など、逐一報告や相談をして、母はそのたび、一緒に怒ったり喜んだりしてくれたんです。あの頃は、母に褒められることが一番の喜びで、とにかく甘えていたし、頼りにしていました。
いっぽうで、こんなことしたら母は嫌がるかなって、いつも母の顔色を伺っていた気もします。親子といっても適切な距離感だったのかどうか。「母は母、私は私」という、個人単位の考え方ができず、いつも自分ではなく母の考え方が優位で、個人の境界線が曖昧だったと思います。
── 恋愛面ではどんな影響を受けましたか?
鈴木さん:両親の離婚は、多少なりとも影響を受けていると思います。父が家を出て、母が父に向ける怒りを見てきましたし、母が発するネガティブな言葉がいつの間にか私の中に刷り込まれていったのか。私が誰かと恋愛をするようになっても、自分は本当に幸せになれるのか。相手はどこかに行ってしまうんじゃないかと、恋愛に対してどこか懐疑的というか、相手を信じられない気持ちもあったんです。
私は母の言うことをひたすら信じてきましたが、途中から違和感や生きにくさ、窮屈さを感じ始めるように。30代半ば頃です。次第に、自分が生きづらいのは母のせい。自分らしくいられないのも母のせいだと思い込み、とにかく母から逃れたくなりました。そこで私がとった行動は、当時つき合っていた方と結婚すること。まぁ、歪んだ結婚観ですよね。
── 鈴木さんが39歳のときですね。
鈴木さん:09年に知り合って、11年に結婚して、15年に離婚したので、4年弱の結婚生活でした。もちろん相手が好きで結婚を決めましたし、結婚生活は楽しいこともたくさんありましたよ。でも、結婚して少し経つと、「なんでこれやってくれないの?」「やってよって言ったじゃん!」と相手に求めることが多くなってしまったんです。「どうしてわかってくれないんだろう」って、自分が満たされない気持ちを相手に満たしてもらうことばかり期待して。どんな結婚生活を送りたいのかも曖昧でしたし、そもそも恋愛もうまくできていなかった。当然彼にも向き合えていない。今思えば40歳近くになってもこんなに拗らせていて、とんでもないですよね。
母から逃れたくてした結婚ですが、結婚後も母の存在は大きかった。自分自身の違和感はなくならず、ひたすら自分を模索する日々が続いて。仕事でも、これまでやったことのないことにチャレンジしてみよう。バラエティの露出が増えていったのもこの頃です。