「この言葉だけは言わない」と思っていたけど

久保田智子と娘
4歳の誕生日を迎えた娘さんと自宅で本を読む久保田さん

── 事前にどんなことを話そうと思っていましたか?

 

久保田さん:夫と話をしていて、夫が「産んでくれてありがとうございます」だけは言うのを止めようねって言っていたんです。私たちのために産んだわけじゃないし、私たちが言うことじゃないよねって。私は「どうなのかな…?」と思っていましたが、とにかく「大切に育てます」といったことは伝えました。でも、今だったら「産んでくれてありがとう」ってやっぱり伝えたかったなと思います。いろいろな困難があるなかで、それでも娘の命を育んで産む選択をしてくれたことに対して、心から感謝したいと思うからです。

 

あと、「頑張ります」も言わないようにしようと思っていましたが、言っちゃいましたね。「頑張ります」って根性論の話をしてもしょうがない。でも、病院では産みの母のご家族も一緒にいましたが、涙を流して私たちの話を聞いてくれた方もいたので、この言葉が響いたのかわからないですが、私の「一生懸命やります。大切にします」という気持ちは伝わったと思います。

 

ほかには、娘のことをどんなふうに育てて欲しいとか、娘のことを思う気持ちも聞きたかったんですが、あまり具体的な話ができないままで終わってしまいました。それはそれでしょうがなかったとは思いますが、「今はこんな感じですよ。こんなふうに育ってますよ」ともしできるなら伝えたいですね。私がお世話になっている斡旋団体では、委託後は基本的に交流しないことになっています。ただ、世界を見渡すと両方の意志があれば会うとか、日本でもそうした団体もありますし、今はもっと話をしたらよかったなとは思います。

 

── 娘さんとの生活がスタートして、いかがでしたか?

 

久保田さん:不安ばかりでスタートしました。新生児だったので、最初の1か月は赤ちゃんを外に出さないでくださいと言われて、私自身も家からほとんど出ませんでした。それでも、育児ノート、排便・排尿ノートを書くのは楽しかったですし、家でずっと娘をみているのも楽しかった。夜泣きが大変なときもありましたが、この生活自体、自分にとってまったく当たり前ではなかったので、すごく幸せでした。基本的に外部との接触がほとんどないので、関わるのは私と娘、そして夫。娘のことだけを考えていればいいし、ほかに乱される要素がないのですごく穏やかでした。娘の衣服を洗濯をするのも幸せでしたし、こんなに幸せでいいのかな、と思うくらい幸せに過ごしていました。

 

── その後、娘さんはすくすく成長されていったと思いますが、母として気持ちの変化はありましたか?

 

久保田さん:変わらず幸せを感じていましたが、いっぽうで自分は「ママ」って呼ばれていいのかなと思ったこともあります。そんな気持ちがなくなったのは、娘がしゃべれるようになって「ママ」って呼んでくれるようになってからですね。彼女からしたら私のことを「ママ」って認識するのは当然なんでしょうけど、彼女の口から「ママ」と呼ばれて、私のことをいつも探してくれる様子を見ながら、あぁ、この子にとって私は「ママ」なんだと徐々に自信がついていったような気がします。

 

 

娘さんが成長するなか、斡旋団体の勧めもあり、久保田さんは産みの親がいることを伝える真実告知を行っていきます。当時まだ2歳半だった娘さんは当初は理解できているか、いないのかわからない反応でしたが、伝え続けることで次第に変化が生じてきたそうです。

 

PROFILE 久保田智子さん

くぼた・ともこ。1977年生まれ。広島県出身。東京外国語大学卒業後、2000年にTBS入社。アナウンサーとして活躍し15年に結婚。TBSを退社し渡米。18年に帰国後、報道記者としてTBSに復職。19年養子縁組にて1児の母に。2024年4月から兵庫県姫路市教育長に就任。

 

取材・文/松永怜 写真提供/久保田智子