幼少期に身についた、今につながる質素な暮らし
母は料理上手で、シェパーズパイ(イギリスのミートパイ)やソーセージロール、おやつのビクトリアンケーキ、ブラウニー、フルーツケーキなどは思い出の味。こんなふうに書くとどんなに素敵な食卓かと思うかもしれませんが、母は料理に時間をかけるのはいけないことだと思っていたので、通常は簡素でした(イギリスの知識層では食にうつつを抜かすのは下品だという考え方があり、聖公会のクリスチャンで禁欲的なのです)。
お誕生日は当日に「おめでとう!」と言葉をかけ、クリスマスは必ず家族で過ごす。いつも何を食べるのかが大事なのではなく、「誰と何を話すのか」が大事で、イベントではプレゼントが問題じゃなくて「愛」を伝えることが大事だと教えられてきました。それは私のベーシックになっています。
もちろん食事も家族一緒に。みんながそろってからお祈りをして「いただきます」と言ってから食べ始め、食事が終われば「ごちそうさま」と言ってみんなで片づけるのが、私にとって家族の食卓でした。
両親はクリスチャンで必要なものにはきちんとお金をかけるけれど、決してぜいたくはせず、暮らしは質素。今思い返せば当時の住まいやインテリアは、お世辞にもおしゃれとは言えなかったけれど、両親にとっての身の丈だったと思います。だから反面教師で、住宅や建築の方向に進むことにしたのだと思うけど…。
私が小学校高学年のときに新築で住宅を建てましたが、今考えるとプランも普請も粗末で、いいものではなかった。家族が仲良しで温かな家庭だったから、その時代は何の不自由も不満もなかったけれど、建築の世界に入ってからは、「私だったらこう創るのに」と思っていました。
その後、高校の授業選択の際に音楽か美術の二択を迫られ、現実的に将来仕事になるのかを考えて美術を選択。その流れで部活も美術部に所属しました。その美術部の先輩が東京の美大に行ったことが私の道しるべになりました。
大学では、初めての東京を十分に楽しみ、2年生のころは学校が終わると、渋谷の洋服屋さんでアルバイト。寮も出て友達と暮らしながら夜な夜なカッコいい大人たちにまみれて、西麻布や青山を満喫していました。
美大は徳島では出会わないようなさまざまなスタイルの人たちがいてとても刺激的でしたね。今振り返ると大学生活は、東京に来た足がかりみたいな位置なのかもしれません。
PROFILE 田中ナオミさん
たなか・なおみ。一級建築士、NPO法人家づくりの会会員、一般社団法人住宅医協会認定住宅医。1963年大阪府生まれ、1965年から高校卒業まで徳島県にて過ごす。女子美術大学短期大学部造形学科卒業後、エヌ建築デザイン事務所、藍設計室を経て、1999年「田中ナオミアトリエ一級建築士事務所」を設立。住み手を笑顔にする住宅を一筋に手がける住宅設計者として活躍。昨年12月に新刊『60歳からの暮らしがラクになる住まいの作り方』を上梓。
取材・文/岩越千帆(smile editors) 撮影/鈴木真貴