無我夢中で過ごした日々は、どんな財産をその人に残すのでしょうか。奈美悦子さんは13歳からバレエ団に入り、踊りに歌にドラマにと多忙な毎日を過ごしました。いま振り返る、かけがえのない時間と残ったものについて聞きました。(全5回中の3回)
13歳でバレエ団へ「ドラマでは大御所にタメ口をきいて…」
── 13歳のとき西野バレエ団に入団し、芸能界入り。バレエ団はオーディションを受けられたそうですね。
奈美さん:当時、西野バレエ団は金井克子さんというスターがいて、NHKの『歌のグランド・ショー』にバレエ団のメンバーが出演したりと、すごく注目を集めていたころでした。私がオーディションを受けたときは1500人の子たちが参加したと聞いています。
タレント志望の子たちが集まっていて、みんなすごく踊りもうまいし、歌もプロのようにうまい子ばかり。私は歌なんて習ったこともなければ、バレエを始めたのも遅くて、いちばん出来が悪かった。これはダメだと思ったけれど、たくさんいる女の子の中から、なぜか西野皓三先生が私を選んでくださって。たぶん先生は技術ではなく、感性で選んでくださったのだと思います。思いがけず、西野バレエ団の一員としてデビューすることになりました。
── 時を同じくして、NHKのドラマ『文五捕物絵図』で早くも女優デビューされています。当時の奈美さんは女優を目指していたのでしょうか?
奈美さん:私としては、やっぱり踊ったり歌ったりしたい気持ちがありました。そもそも西野バレエ団に入ったのも、そういう思いがあったから。それに当時の私はバリバリの関西弁で、「ドラマなんてムリとちゃいますか?」なんて言っていましたね(笑)。ドラマのオーディションのため、地元の関西から東京へ向かいました。まだ新幹線ができたばかりで、新幹線に乗せてもらえるというだけでうれしくて。だから出演が決まったときは、自分でも驚きでした。
主演の文五役は杉良太郎さん。杉さんは歌手としてはすでにヒット曲があったけれど、役者になりたいということで出演されたようです。共演者は東野英治郎さんや岸田今日子さんなど、すごい方ばかり。でも、当時の私は怖いもの知らずで、東野さんにタメ口をきいては、ディレクターさんたちが固まっていましたね(笑)。そんな私を東野さんはすごくかわいがってくださって、引退された後も私がテレビに出ると「悦子だ!」と言っていた、と奥さまから聞いたことがあります。
アイドルの言葉さえない時代「26時間撮影することも」
── 西野バレエ団では選抜メンバーとなり、絶大な人気を博します。
奈美さん:西野バレエ団のメンバーでユニットを組むことになり、金井克子さん、由美かおるさん、原田糸子さん、私の4人が選ばれました。『レ・ガールズ』というバラエティ番組がスタートし、私たちは西野バレエ団の4人娘『レ・ガールズ』として売り出しています。
『レ・ガールズ』は大人気で、40%もの高視聴率を打ち出しました。「アイドル」という言葉すらなかったころです。当時は若い女の子がミニスカートで歌って踊ることなんてなかったから、「まぁ、若いお嬢さんたちがミニスカートで踊っているわ」なんて言われていましたね。その後、キャンディーズが出てきて、そこからアイドルという言葉が使われ出すようになりました。
── アイドルの先駆けですね。奈美さん自身、世の注目をどう受け止めていましたか?
奈美さん:もう忙しすぎて、自分がどれくらい人気があるかもよくわかっていませんでした。ドラマで週に2回はNHKに行き、ロケも1日ありました。『レ・ガールズ』も週に2日はリハがあって、ダンスに音合わせ、顔合わせ、それでようやく本番です。本番も朝の7時に局に入って、翌日の朝8時、9時まで26時間近く撮影していました。30分番組ですよ。いまだったらありえないですよね。でも当時はそういう時代だったんです。
というのも、当時はテレビがカラーになったばかりで、カラー調整に何時間もかかったからです。カラー調整用の女の子がいて、ファンデーションの色味をみながら照明さんがライトを調整して。私たちはその間に振付の練習をして、バックダンサーと合わせて撮影に挑みます。寝ないでそのまま次の仕事に行くこともたびたびでした。寝るとしたら、移動中の車の中。そのぶん周りも配慮して、私たち『レ・ガールズ』のメンバーには付き人やメイク、衣裳さんがつき、メイクや衣裳直しもその場ですぐ対応してくれました。西野バレエ団の中でも『レ・ガールズ』の4人だけはそういう扱いでした。