10代でデビューしたタレントの大河内志保さん。現在は食のスペシャリストとして活躍の場を広げていますが、転機となったのは芸能界引退の決断に至った、新庄剛志さんとの出会いでした。大河内さんが、食べ物で健康を整える「食治」の考えに至った経緯を伺いました。(全2回中の1回)
クラリオンガールに抜擢され多忙を極めたモデル時代
── 1990年、JALのキャンペーンガールに選ばれたことがデビューのきっかけとなりました。以前からモデルに興味があったのでしょうか?
大河内さん:もともと「モデルになりたい」と考えたことは一度もなく、高校卒業後は、渋谷にあるキャビンアテンダントの専門学校に入学しました。夏休みに入ってアルバイトを探しているときに、偶然渋谷でスカウトを受け、その事務所の担当者から「JALのキャンペーンガールに応募してみないか」と提案されてオーディションにエントリーしました。応募してみたところ運よく選出されてモデルとしてデビューすることになりました。
── その翌年にはクラリオンガールにも選ばれて、注目を集めましたね。当時のベリーショートの髪と日焼けした肌が印象的でした。
大河内さん:クラリオンガールに選ばれたのは偶然なんです。本当はほかのモデルの子がオーディションを受ける予定だったのですが、審査当日、新幹線が遅れてしまい間に合わないということに…。「穴を開けるのはもったいない」と、たまたま事務所にいた私に声がかかったんです。
審査を勝ち上がってクラリオンガールに選出されてからは、専属のプロデュースチームが設定した「しなやかな女豹」というキャッチコピーに近づくため、指示されるままに髪を切ってパーマをかけ、日焼けサロンにも定期的に通っていました。ただ、自分のイメージからかけ離れたベリーショートになったときは、ショックのあまり涙が止まりませんでした。その後は、テレビ番組のレギュラー出演や地方巡業など多忙を極め、自分が今どこにいるかもわからないほど。「忙しい」という文字は、「心を亡くす」と書きますが、まさにそんな感じでしたね。
芸能界を引退したことが「食の専門家」への第一歩に
── クラリオンガールとしての活動がきっかけで、新庄選手と出会ったそうですね。交際を始めてから芸能界を引退されましたが、どのような思いで決断されたのでしょうか。
大河内さん:私が初めて球場に足を運んだとき、彼が背負う期待の大きさを目の当たりにしたことが転機となったように感じています。大阪の地で、どれだけ阪神が愛されていて、どれだけ彼がスター的存在であるかを知った瞬間から、「野球だけに集中できる環境をつくってあげたい」と考え始め、引退への覚悟が徐々に固まっていきました。
だから引退後も「サポート」というより、「私がもうひとりの新庄剛志になろう」と。「彼が『野球』を、私が『それ以外』をしよう」と覚悟を決め、食事などの生活面からメンタル面のケア、メディア出演などのブランディングまで、すべてを担うことにしました。
── 二人三脚で、同じ夢を追いかけたのですね。
大河内さん:彼は、大阪だけにとどまらず、全国、海外へと活躍の場を広げて「世界のスーパースターになりたい」と考えていました。私もその目標に向けて、彼を全力でプロデュースしていったんです。
── 調理師免許を取得したのも、新庄さんの栄養面を考えてのことでしょうか。
大河内さん:そうですね。モデル時代は忙しくて自炊する暇もなかったのですが、アスリートを食事でサポートするためには、栄養学からきちんと知識を身につけなければいけません。そう考えて、23歳のときに香川女子栄養大学に入学し、調理師免許を取得することにしたんです。また、外食だと人目が気になりますし、野球だと長いシーズン中で多忙のなか、なかなか外食ができないことも。どのような状況でも、多彩なジャンルの料理を、自宅で楽しめるようにしてあげたいという思いもありました。