命を救ってくれた先生には「今でもおごってもらってる(笑)」
── 岩朝さんが手術してもらったドクターとは今も交流はあるのですか?
岩朝さん:大学病院の医師はたいてい、何年かすると別の病院に転職されるのですが、私の担当医はずっと大学病院にいてくれました。「長期的にその子の経過を把握しているドクターがいないといけない。だから転職しなかった」と言っていました。今でもその先生とは交流していて、当時の病児たちと、表向きは「先生を囲む会」と称して先生にごちそうになる会(笑)を開催しているんですよ。
── 先生にごちそうしてもらうんですね!(笑)
岩朝さん:はい(笑)。生き残った者の責任ではないですが、長期入院していた10年間で、たくさんの子が亡くなっていくのを目の当たりにしました。だから、「1日もムダにしないで生きていこう」とずっと思ってきて。子どものころに長期入院するような病気をした場合、私のようにその後外で動き回れるほど元気になれるのはごく少数なんです。
とはいえ、思春期は体じゅうが手術の跡だらけで、恋愛などいろんなことで思い悩みました。中学生のころには、「海に行こう」と誘われても「ビキニなんて着れないし…」となってしまって。「どうせ私なんか…」って腐っていた時期もありましたね。
── 思い悩むのも当然だと思います。
岩朝さん:いっぽうで、「頑張ったらここまでできるんだ」という成功体験もありました。長期入院中は、毎日とにかく生きるために必死で、勉強なんて気にする余裕もなかったし、親やまわりからも「勉強、大丈夫?」なんて言われたことがなかったんです。私がいつまで生きられるかわからない状態だったから、「生きていてくれるだけでいい」って、それだけ。誕生日を迎えるたびにみんな涙を流して喜んでくれていました。怒られた記憶もほとんどありません。
そんな感じだから、入院中はまったく勉強しなくて、漢字は何ひとつわからないし、算数もわからない。小学4年くらいで退院できて学校に行ったのですが、勉強なんてちんぷんかんぷんでした。でも、頑張って勉強の遅れを取り戻して、小学6年くらいには学年で上位になっていたと思います。
── 学年で上位だなんて、すごく頑張ったんですね。
岩朝さん:中学2年のときもまた長い入院をして、学校に帰ってきたらまた浦島太郎状態になっちゃったんですけど(笑)。二次方程式とか全然わからなくて、呆然としました。
ただ、その後、3か月くらいでみんなに追いつけたので高校受験はなんとかなったんですけど。学校から帰ってきたら勉強をして、次の日の休み時間には職員室に行って先生にわからないことを質問していました。
「生きたくても生きられなかった命」を知っているから
── 幼少期のつらい経験から、里親を支える活動を始められたんですね。
岩朝さん:今、里親の啓発・支援活動をしているのは、虐待に遭った子たちをひとりでも助けたいからです。生きたくても生きられなかった命を見てきたから。
健康って、お金を出しても買えないんですよね。でも、世の中には、せっかく健康な体で生まれたのに、親から暴力を振るわれたり、ご飯すらもらえなかったり、そんな仕打ちを受けている子どもがたくさんいる。しかも亡くなる子がいるなんて私には耐えられない。
もし5歳の子が虐待で亡くなったとしたら、守ってもらえるはずの親から虐げられて地獄のような5年の月日を過ごし、たったひとりでどんなに苦しい思いをするか…。同じ5歳でも、小児科で亡くなった子たちは、まわりの大人から1日も愛されない日がないなかで最期を迎えます。そんな子たちを知っているから、「おなかがすいた」「痛い」「ごめんなさい」と言いながら亡くなる子どもがいることが本当に耐えられない。これってやっぱり運命ではない。小児がんの子たちは私たちが頑張っても助けることが難しいとしても、虐待に遭っている子たちは亡くなる前に助けることができると思うんです。
いま、虐待や不適切な環境、経済的な問題などさまざまな理由から保護された子どもたちを児童相談所から一定期間預かり、子どもにとって「自分だけを見てくれる大人」として育てる養育里親が不足しているという現実があります。その状態をなんとかしたい。だから、自分にできることに取り組んでいるところです。
PROFILE 岩朝しのぶさん
いわさ・しのぶ。1973年、宮城県生まれ。先天性の病気によりこれまで17回の手術を経験し、シングルマザーの母親に支えられ幼少期を過ごす。25歳で起業後、広告代理店業の代表に就任。不妊治療を経て養育里親となり、現在も現役里親として子どもを養育している。認定NPO法人日本こども支援協会 代表理事 一般社団法人明日へのチカラの代表理事 「ドコデモこども食堂」代表。
取材・文/高梨真紀 写真提供/岩朝しのぶ