生まれた瞬間に18歳までの余命宣告を受けた落語家・三遊亭あら馬さん。「いつ死ぬかわからないなら、やりたいことは全部やって太く短く生きよう」とアナウンサーの夢を追って東京へ。そんな彼女の波乱万丈の人生は幼少期から始まったそうです。(全4回中の1回)
「どうせ短い人生なら、太く生きたい」
── あら馬さんのお生まれは鹿児島とのことですが、どのような幼少時代でしたか?
あら馬さん:0歳のときからやさぐれて生きてますね(笑)。私は生まれつき難病の胆道閉鎖症を抱えていて、生まれてすぐに手術を受けたんです。胆道閉鎖症は、肝臓と十二指腸をつなぐ胆管がふさがり、肝臓から腸へ胆汁を出せない難治性の病気です。 私の場合、胆嚢を取り除いて肝臓と腸を直接つなぐ葛西手術を受けました。当時、この病気で生きられている方の最高年齢が18歳だったので、「18歳で死ぬよ」と宣告されたんです。
── それは衝撃的ですね。
あら馬さん:はい。なので、幼いころから「自分はいつ死んでもおかしくない」「どうせ短い人生なんだ」と考えるような子どもでした。とはいえ、私には弟がひとりいるんですが、私が病気だからといって親から特別扱いされることはありませんでした。むしろ、まるで長男のようにたくましく育てられたんです(笑)。
── 病気との闘いは大変だったのでは。
あら馬さん:そうですね。小さいころから入退院をくり返していました。肝臓は「沈黙の臓器」と呼ばれるほど普段は痛みを感じないんです。ただ、ストレスが溜まると高熱を出したり、突然倒れたりすることがありました。特に大事なイベントやオーディション前には決まって体調を崩していましたね。
学生時代は、「なんでこんな体なんだ」と思うことが多く、病気のつらさをわかってもらえないという気持ちから母に反発していたんです。その一方で、正義感は人いちばい強かった。間違ったことがあれば男子相手に口ゲンカでなぎ倒すようなこともありました(笑)。「お前たち、そんなの許さないぞ!」と。生徒会活動にも積極的で、常に前に出るタイプでしたね。
── 18歳を超えたときの気持ちはどうでしたか?
あら馬さん:正直、「医者は嘘つきだな」と思いましたよ(笑)。だって生きているんだもん。でも、同時に「18歳を超えられた」という大きな達成感もありました。小さいころから「18歳で死ぬ」と考えていたので、18歳を過ぎてからは「どうせいつか死ぬなら、悔いのない人生を送ろう」「太く短く生きるために、やりたいことは全部やろう」という思いが膨らんでいましたね。そして、その思いを叶えられる場所が私にとって東京だったんです。
小学校6年生で「東京は庭だ」と思うも
── 東京への憧れはいつごろから芽生えたのでしょうか?
あら馬さん:小学校6年生くらいからですね。父が税理士で、仕事で東京に行くときはよく着いていきました。竹下通りで芸能人のショップを見て、ひとりで街をぶらぶらするのが楽しくて。「東京は庭だ」って感じるくらいしっくり馴染んでいて、いつか「絶対にここに住むんだ」と決めていました。
そんな憧れもあって、高校時代からアナウンサーを目指して地元・鹿児島のアナウンサーの予備校に通っていたんです。大学は東京に行きたかったんですが、親に「大学までは鹿児島にいてくれ」と説得されて。「上京したら金かかって大変だぞ、貧乏になるぞ」って(笑)。結局、鹿児島の大学に進学しました。
大学卒業後は、キー局のアナウンサーになろうと必死でした。でも、キー局のアナウンサーは東京出身のお嬢様というイメージがあって。地方出身の工学部の私には、それが悔しかったんですよ。だから、ミス鹿児島コンテストに出てファイナリストまで行ったんですが、結局、フジテレビも日テレもテレ朝も全部、落ちてしまいました。
それでもアナウンサーの夢を捨てきれず、周りには東京で就職が決まったというフリをして、実は無職のまま上京したんです。
── 大胆な決断をされたわけですね。ご家族は体調のことで心配されませんでしたか。
あら馬さん:親は私の性格をよくわかっていて「この子は言うこと聞かないから」と諦めていたと思います(笑)。きっと反抗心しかない私を止めても無駄だと。22歳で東京に出てきて、まず4月に日テレ系のアナウンサー事務所に入ることができました。ただ、親を安心させるためには「就職」も必要で、それで5月にコンサル会社に就職したんです。アナウンサー学校とのかけ持ちという生活で。
そのコンサル会社では、私がアナウンサー志望だと知ってイベントの司会を任せてくれるようになりました。しかし、だんだんとほかのアナウンサーの仕事が増えていったため、結局1年もしないうちにコンサル会社は辞めて、フリーアナウンサーとして歩み始めました。
── その後、アナウンサーとして順調に?
あら馬さん:いえ、そんなに甘くなかったですね。アナウンサーの仕事よりも、再現VTRなどの女優業のほうが多くなっていきました。でも「自分は演技が下手だな」と感じていたんです。それで27歳のときに、演技力を磨こうと三宅裕司さんのSET(スーパーエキセントリックシアター)の研究生になったんです。1年間、歌や踊り、殺陣などを学びました。
ところが結局、正劇団員にはなれなくて。「もう、芸能界の夢を見るのもおしまいなのかな」「28歳になって、ここが潮時なのかな」って。それで、山口百恵さんみたいに自分もマイクを置くような気持ちで芸能界を離れる決心をしました。