「がん患者向けの帽子」が話題の創業112年の帽子メーカー・サトー。その4代目、佐藤麻季子さんは大学卒業後に大手企業に就職をするも、母のある言葉がきっかけで右肩下がりのこの業界に入る決断をしたそうで ── 。(全2回中の1回)
「すぐに投げ出す自分を変えたい」
── 佐藤さんは老舗帽子メーカーの家で、三姉妹の末っ子として育ちました。どのような子ども時代を過ごされましたか。
佐藤さん:何に対してもやる気がない子どもでした。嫌なことからすぐに逃げ出す性格で、そろばんや習字、新体操など、常に習い事をたくさんやらせてもらいましたが、すべて長続きせず辞めることをくり返していました。
── 今のお姿からはまったく想像できません。
佐藤さん:そうかもしれません。社長という大役を担っていることもあり、そのように言われることも多いです。幼少時代はそんな調子でしたが、でも、心の片隅ではずっと「頑張っている人たち」を羨ましいと思っていたんです。
2人の姉は習い事や部活を熱心に頑張っていましたし、両親が会社を守るために必死に働く姿を間近で見てきたので。何かに一生懸命になれる人に対して、憧れやコンプレックスを抱き続けていました。
── そんな佐藤さんが、大学では強豪ラグビー部のマネージャーになりました。
佐藤さん:大学に入学して1年間は何もしていなかったらあっという間に時間が経ってしまい。このままじゃまずいと思って、2年生に上がるときに志願しました。理由は、子ども時代から抱き続けた「何かに頑張る人たちへの憧れ」です。厳しい環境に自分を置いて、何事も投げ出す自分を変えたかった。
当時のラグビー部は、女子スタッフがひとりもおらず、マネージャーの募集自体もしていませんでした。でも、電話で何度も志願したら、面接をしてくださり、なんとか入部することができました。
女子禁制の雰囲気のなか、周囲となじめず、経理事務が主な担当だったこともあり、ひとりで過ごす日々が続きました。部員100人分の運営費の管理を任せられ、大きなプレッシャーと向き合う日々でした。
でも4年生になったころに、部員の皆と海に行ったり、飲みに行ったりすることがやっとできるようになりました。「仲間」として認めてもらえたことが、とても嬉しかったですね。
── 子ども時代の佐藤さんを知ると、思いきった決断だと感じます。厳しい環境のなか、卒業まで続けられた理由は何だったのでしょうか。
佐藤さん:全国から集まる選手たちは、ラグビーに人生を懸けて、自分たちに誇りをもってプレイに向き合っている人たちばかりです。そんな、甘えたことを言っていられない場所に身を置くことで、自分を変えられるのではないかと思いました。
実際に、彼らのプレイへの向き合い方を目の当たりにして、こんなにすごい人たちの世界にいさせてもらえることに、感謝しなければならないと思いました。だから、最後までやりきろうと思えたのだと思います。
まったくの異業種から家業を継ぐことに
── 大学卒業後は、帽子業界とは無縁の大手企業に就職されました。そこから家業を継いだきっかけは何だったのでしょうか。
佐藤さん:三姉妹なこともあり、両親は子どもたちに家業を継いでほしいとは思っていなかったようです。私も、大手企業で充実した日々を過ごしており、継ぐことはまったく頭にありませんでした。
でもある日、母から業績悪化や跡継ぎがいないことで父が悩んでいることを聞きました。帽子メーカーは年々、廃業数が増加し続けています。父も、業種を変えて会社を経営した方がいいのかもしれない、と悩んでいたんです。
父はうつ病や心筋梗塞を経験しながら、家業を守ってきました。そして、専業主婦だった母は、いちから縫製を勉強して、レディース物を展開することで経営を支えてきました。そんな幼いころから見てきた両親の姿を思い、家業を継ぐことが自分の宿命だと決意をしました。
両親は、せっかく大手企業に入れたのに、と戸惑っていましたが、私の決意が揺らぐことはありませんでした。
── 2013年に入社されました。実際に入社してみて、会社の状況はいかがでしたか。
佐藤さん:2011年の東日本大震災で、福島県にあった自社工場がすでに閉鎖していました。関東近郊の職人さんたちも、60代から80代の方ばかり。周りを見渡せば、他社も同じような状況です。これだけ生産力が乏しい業界だという現実に驚いたことを覚えています。
でも自分から動かないことには、状況が改善されることはありません。2017年には、福島県の工場を撤退し、本社に縫製部門を設けて職人を新たに雇いました。また、2019年には、生産を一部委託していた和歌山県の工場が廃業することになり、事業譲渡を申し出、生産力の確保につなげました。
── 生産基盤の確保をしながら、どのように事業を展開していったのでしょうか。
佐藤さん:右肩下がりのこの業界に新規参入する会社は、ほぼ皆無だと思います。それを逆手にとるしかないと考えました。
私は、帽子や縫製について知識がゼロの状態で入社しました。でも、弊社には創業時代から培ってきた技術があります。100年の間に先代たちがつくってきてくれた取引先との信頼もあります。
私は、自分が企業勤めのときに培った営業力を活かして、新しい商品の提案をし続けました。絵心がないので、UFOみたいなデザイン画を抱えてですが(笑)。提案する商品さえよければ、お仕事につながりました。ライバルが少ないのは、すごく大きかったと思います。
がんになって「周囲に生かされている」ことを実感
── 2014年に代表に就任されました。若くして社長になられて、従業員との関係にご苦労はありませんでしたか。
佐藤さん:人の上に立つことは、初めての経験です。上に立つための人間性の形成もできていませんでした。帽子はもちろん、経営についても無知な状況で、周囲を思いやる余裕がまったくありませんでした。自分に余裕がないから、上から強く指示するという状態になっていました。
── 従業員の方との向き合い方が変わった大きなきっかけはあったのでしょうか。
佐藤さん:向き合い方の基本を大きく変えたのは、間違いなく、がんを経験したことです。長引く口内炎を切除したら、舌がんが見つかりました。2022年2月のことです。がんを宣告された直後、待合室では涙をこらえていましたが、会社に戻って社員みんなの顔を見たとき、私は泣き崩れてしまいました。
それまでは、ラグビー部や大手企業を経た自信から、自分のことを「何事も前向きに切り替えて生きていける強い人間」だと思っていました。「強い自分」や「皆を引っ張っている」という表面的な部分しか見えていなかった。でも病気になって、精神的に落ち込み、身体的にもできないことが一時期増えたことで、「弱い自分」や「周囲に助けられている自分」と向き合わざるを得なくなりました。そこで、自分が先頭に立っているのではない、皆が先頭に引っ張ってくれていたのだということが、やっとわかったんです。
皆がいるから、経営に立ち向かっていける、がんにも立ち向かっていける…。1人で
頑張っているのではない、ということに気づけたことが大きかったと思います。
PROFILE 佐藤麻季子さん
株式会社サトー(1912年創業)の4代目社長。三姉妹の末っ子として、東京都台東区に生まれる。大学卒業後、帽子とは無縁の大手企業に就職するが、2013年に株式会社サトーに入社。2014年に社長に就任する。がん患者向けの帽子ブランド「シャンヴルマキ」を2022年1月に立ち上げ、2023年7月から販売開始。大きな反響を得る。自身も舌がんを経験するが、「がん患者にエールを送る帽子を」という思いで挑戦を続ける。
取材・文/桐田さえ 画像提供/佐藤麻季子