世界中から着ぐるみの製作依頼を請け負う「KIGURUMI.BIZ」代表取締役の加納ひろみさんは、シングルマザーとして仕事と育児の両立に悩んだ時期がありました。独学で身につけた英語のスキルを活かし、大手外資企業で働くも、そのキャリアを手放すことになり── 。(全3回中の1回)
幼少期から培った英語のスキルで再就職
── 加納さんは元々、英語のスキルを生かしてApple社に勤めていたそうですね。どのように英語力を身につけていったのでしょうか。
加納さん:中学生くらいの頃から海外への憧れがあり、英語はとても好きだったんです。その頃って、今ほどインターネットが発達していなかったので情報も少ないですし、「あの海を超えた向こうに何があるんだろう」って思いを馳せていて……。
英単語の一つひとつの響きがすごく好きで、音楽みたいに聴こえていたといいますか「こういう言葉を話せるようになるにはどうしたらいいんだろう」って。海外の映画やNHKのラジオ講座を通して身につけていきました。
高校卒業後は都内の大学に進学したのですが、どうしても英語を本格的に学びたいと思い、中退して英語専門学校に入り直したんです。その後、アメリカの旅行会社に勤めました。
── Apple社で働くに至るまで、どのような経緯があったのでしょうか。
加納さん:学生時代に出会った男性と結婚して、専業主婦になったのですが突然、離婚することになりました。上の娘は5歳、下の息子はまだおっぱいを飲んでいる頃に、ポンッと放り出されたといいますか…。
妊娠したときにキャリアを切ってしまったので、明日からどうやってこの子たちを食べさせていくんだろうという不安に押しつぶされていました。子どもを2人抱えての就職は難しいだろうという覚悟はあったのですが、英語のスキルがあったおかげで、意外にもすんなりと建築会社への入社が決まったんです。
ただ、そこの会社の空気がなかなか合わず、「より楽しい仕事はないだろうか」と探しているなかで、Apple社のカスタマーサービスの業務にたどり着きました。
── 幼い頃から鍛えていた英語のスキルが、人生の窮地で生きたのですね。
加納さん:最初は派遣社員として働いていたのですが、正社員登用のお話をいただいて、入社試験を受けて雇ってもらえるようになりました。でも1年くらい経ってから、本社が幕張から初台に移転することになり、今まで住んでいた場所から通えなくなってしまって。
会社の移転先近くでアパートを探したのですが、シングルマザーというだけでなかなか条件のよい部屋を紹介してもらえませんでした。ようやく新しい住まいを見つけて引っ越しの準備を進めたのですが、次は保育所や学童保育の空きが見つからなくて…。
育児との両立が叶わずキャリアを手放すことに…
── 会社の移転にあたり、さまざまな壁にぶつかったのですね。
加納さん:本当に大好きな会社だったのですが、正直いろいろ考えることに疲れ果ててしまい、仕方なく辞めることになりました。
たとえばそのとき、地元の両親に「しばらく東京で育児を手伝ってほしい」と言えば来てくれたと思うんです。でも、離婚したことで心配をかけたという罪悪感もあり、「助けて」と言うことができませんでした。
離婚したとき、私のことを理解してくれる人もいれば、批判してくる人もいました。親戚ですら「ひろみちゃんに問題があったんじゃないの?」「いい奥さんじゃなかったんじゃないの?」という人もいて。離婚という「結果」は周りに知られますが、そこに至るまでの経緯はあまり話すものではないですし、それを知らずにいろいろ言われたのはツラかったですね。
── 当時は今以上に、シングルマザーに対する風当たりも強かったのではないでしょうか。
加納さん:個人的には〈シングルマザー=ダメな人〉というレッテルを貼られていたように思います。今は多様性が重視される社会になりつつあるので、シングルマザーも受け入れてもらいやすくなったと思いますが、その頃は「人として完璧ではない」という見られ方をしていたように感じます。
仕事だって今は転職するのが当たり前ですが、当時は「あいつは転々としていて落ち着かない」という見方をされていて。変化する人が評価されない時代だったのかなと思います。そのうちの一つとして、離婚という変化がマイナスに捉えられていたのではないでしょうか。
新たな食と住まいを求めて福島県奥会津へ
── ご自身の意志に関わらず、さまざまな事情によってキャリアを手放すのはツラいことだと思います。
加納さん:自分の人生のなかで後悔するところがあるとしたら、あのときにApple社を辞めたことですね。今の人生ももちろん幸せなのですが「あのまま続けていたらどうなっていたんだろう」って考えてしまうことはあります。
── Apple社を退職したのちは福島県奥会津に移り住んだそうですね。
加納さん:次の仕事を探しているときに、友人から「こういう選択もあるんじゃない?」と、奥会津の小さな町が移住者を募集しているという記事をもらいました。よくスキーに行っていた馴染みのある場所だったので、「とりあえず行ってみるか」と子どもたちを車に乗せて向かったんです。
家賃無料で、仕事や学校、保育所もすべて揃っていたので「ここなら生きていける」と思いました。ただ数年経った頃に、精神的に追い詰められる出来事があり、地元の宮崎に帰ることになったんです。
宮崎での仕事を探しているときに、たまたま今の夫に出会い「僕の会社で働きませんか?」と誘ってもらいました。それが「KIGURUMI.BIZ」の前身となる造形専門会社でした。
PROFILE 加納ひろみさん
1960年生まれ。宮崎県出身。Apple社のカスタマーサービス業務などを経て、1998年に現会長の夫とともにKIGURUMI.BIZを創業。2017年に代表取締役就任。「幸せな商品は幸せな場所から生まれる」との理念のもと、女性従業員が多くを占める職場で「働きやすさ」と「着ぐるみの質」の両立に取り組んでいる。2018年に著書「幸せな着ぐるみ工場ーあたたかいキャラクターを生み続ける女子力の現場ー」を刊行。みやざき女性の活躍推進会議共同代表、一般社団法人着ぐるみ協会代表理事などを務める。
取材・文/荘司結有 写真提供/KIGURUMI.BIZ