ハンドモデルとして日米で200本以上のCMや広告に出演してきた永瀬まりさん。27歳で単身渡米し、わずか半年で「Tiffany&Co.」のワールドキャンペーンに抜てきされました。しかしその直後、精神的な不調から持病の「潰瘍性大腸炎」が再燃してしまったそうです。(全4回中の3回)
華やかな仕事と一転した、私生活の孤独感に悩み
── 永瀬さんは「Tiffany&Co.」のワールドキャンペーンの仕事を終えた後に、燃え尽き症候群のような状態になったそうですね。当時はどのようなことを考えていたのでしょうか。
永瀬さん:当時の私は、仕事を頑張った先に「幸せ」があると思っていたんです。この世界でトップになれば、生活も豊かになっていろんなことがいい方向に動くと思い、もっともっと上を目指そうと仕事に打ち込んできました。
ただ、ティファニーのお仕事をいただいてすごくうれしかった半面、それほど生活環境が大きく変わることもないし、もちろん人間関係がよくなるわけでもなくて。渡米して半年では本当の意味での親友にも出会えないし、結婚もしていなかったので家族もいない。華やかな仕事と一転して、私生活の孤独感を感じていたんです。
目標だった仕事を達成したという幸せはあっても、人生がまるごとハッピーになるわけじゃない。戦いに身を置くだけでは幸福度は上がっていかないのでは、と気づいてしまって。果たしてこれが自分の思い描いていた幸せなのか…と悩んでいるうちに、メンタルのバランスが少しずつ崩れていき、仕事の忙しさも相まって、もともと抱えていた「潰瘍性大腸炎」を再燃させてしまったんです。
── 永瀬さんの場合はどのような症状が出ていたのでしょうか。
永瀬さん:私の場合、腸全体に潰瘍ができている状態で、下血が止まらなくて、一日に何十回もトイレに駆け込んでいました。大腸が炎症を起こしているので毎日のように高熱が続いていたと思います。お腹の激痛で吐き気もあり、食事を取ることができないので、体重が1か月で12kgも落ちてしまったんです。
── アメリカでは多額の医療費がかかるうえ、当時所属していた事務所からギャラが支払われないといった事情にも悩んでいたそうですね。
永瀬さん:当時の事務所はギャラが1、2年滞納されているのが当たり前という状態でした。加えて、私は個人事業主という立場だったので、いろいろな保障を受けるのも難しくて。とにかく心身ともに衰弱していたので調べる気力もなく、どうやってここから抜け出せばいいのか…と途方に暮れていました。
「体調が悪いなら仕事を休んでもいいんだ」と初めて気づく
── その後、日本に一時帰国して治療に専念できたのは、現地の知り合いなどの協力によるものだったのでしょうか。
永瀬さん:初めのうちはハンドモデルとしての「かっこいい自分」でいたかったので、周りにSOSを出せずにいたんです。ですが、どんどん衰弱していくなかで「これはもうダメだ」と思い、恥を忍んでいろいろな人に相談させてもらいました。知人が航空券を手配してくれたり、友人に荷造りを手伝ってもらったりして、ようやく帰国することができました。もしSOSを出せていなければ…と思うとゾッとしてしまいますね。
── 衰弱した永瀬さんを見てご家族も驚いたのではないでしょうか。
永瀬さん:帰国してそのまま入院することになったのですが、私があまりにも酷い状態だったので、弟は「もう死ぬかもしれない」と思っていたみたいです。しばらくは絶食状態で、点滴で栄養を摂っていました。
今思えばそうなる前にできることもあったのでしょうが、当時は仕事を休むことができないと思っていて。というのも、当時の日本では体調が悪くても仕事に行くのが当たり前で、アメリカでもその考えが抜けなくて、無理を押して現場に行っていたんです。
しばらくして事務所に打ち明けたら「なんでもっと早く言わなかったの!」と驚かれました。おかしなことですが、その時に初めて「具合が悪ければ休んでもいいんだ」って気づいたんです。もっと早く相談すべきだったし、周りにもっと甘えればよかったなと思います。
「一生懸命働いた先に心の安らぎは…」病床で変化した仕事観
── ご家族が「死」を覚悟するまでの状態だった闘病生活のなかで、永瀬さんの人生観や仕事に対する思いにどのような変化が生まれたのでしょうか。
永瀬さん:とにかく一生懸命働いて、この世界で一番になることがすべてだったのですが、成功と幸福はイコールではなくて、幸せになるための努力も必要なんだって気づいて。病院のベッドの上で、もし今までみたいな生活を送れるまで回復したら「遊ぼう」と思ったんです。
それまでは仕事のために人生を費やしていて、日焼けしないように海で遊ぶこともなく、何かをしていてもすべて「勉強」だと思っていて。すごくストイックになっていたのですが、もっと人生を楽しめばよかったし、本当はずっと彼氏が欲しかったって、泣きながら思いました。
── 真っ先に思いついたのは「恋愛」だったのですね。
永瀬さん:一番やりたかったことは彼氏とのデートでした。それまでは「自分は周りとは違う」とか、変なプライドを持っていて自分から出会いを遠ざけていたんです。もしこれまでの生活に戻れたら、カッコつけずに今までできなかったことをしようと。もちろん仕事にも復帰したいけれど、人生のバランスを取ろうって思いました。
仕事に熱中したからこそ「他にも大切なものがある」と気づけた
── 現在はシアトル在住の男性と結婚して、2歳の息子さんを育てています。潰瘍性大腸炎の症状とは今も向き合っているのでしょうか。
永瀬さん:初めて病気になったのは、ハンドモデルを始めた19歳の頃だったのですが、結婚して育児に専念するためにシアトルに引っ越して、仕事をセーブしたら自然と寛解に入ったんです。自分では仕事が大好きで、楽しく命を燃やしていたつもりが、知らず知らずのうちに身体には負担がかかっていたのだなと思います。
── 健康や私生活より仕事を優先する「ワーカーホリック」に陥る人は少なくありません。一方で、仕事に熱中したからこそ成果を得られる面も否定はできません。永瀬さんご自身は仕事と私生活のバランスについて、今はどのように考えていますか。
永瀬さん:かつては「ノー」と言わずに仕事を引き受けていましたが、コロナ禍で一時的に仕事が落ち着いたこともきっかけとなり、今は自分が生きていくために必要な仕事、やりたいと思う仕事を選んで引き受けるようになっています。せっかく出会えた家族との生活も大切にしたいですし、働くために生きるのではなく、生きるために働くという考え方ができるようになりました。
ただ、仕事に熱中した日々を後悔しているわけではありません。かけがえのない素晴らしい経験だったし、そこまで頑張ったからこそ「他のものも大切なんだ」と気づくことができたと思います。自分の中で「やりきった」と思えているからこそ、仕事を優先できなくなると分かっていても、すっきりした気持ちで夫の転職についていく決断もできました。
これからは好きな方たちと、好きなお仕事をして生きていけたらいいなって思っています。
PLOFILE 永瀬まりさん
1989年生まれ。埼玉県出身。19歳でハンドモデルを始め、日本ではニベア花王「アトリックス」など100本以上のCMや広告に起用された。2016年に渡米し、わずか半年でTiffany&Co.のワールドキャンペーンに抜てき。ニューヨークを拠点に、ハイブランドの広告や世界的なファッション誌などに数多く出演している。現在はシアトルで夫と2歳の長男と3人暮らし。
取材・文/荘司結有 写真提供/永瀬まり、サトルジャパン