2021年の東京パラリンピックで金メダルを獲得し、翌年のウィンブルドンでは悲願の優勝を果たして引退した車いすテニス選手の国枝慎吾さん。公私に渡って彼に伴走してきた妻の国枝愛さんですが、結婚当初は葛藤もあったと話します。(全3回中の2回)

1から100まですべてをテニスに捧げるアスリートとの結婚生活

── 慎吾さんと結婚した当時、愛さんは会社員だったそうですね。プロのアスリートと家族になるというのはどんな感覚でしたか。

 

国枝愛さん:結婚してあらためてわかったことは、テニス選手としてのプロ意識の高さです。生活のすべて、1から100までテニスに捧げている。そのストイックさは本当にすごいことだし、尊敬しています。私とはもう全然違う世界を生きてきたんだな、自分の人生がこうなれるタイミングってどこかにあったのかな、と考えてしまいますね。

 

ただ、そうは言っても結婚当初から「アスリートである夫を支えよう」という意識があったわけではありません。私は大学の同級生と結婚したのであって、「プロの車いすテニス選手と結婚した」という意識はそもそも薄かったんです。

 

あのとき、そういう大変さが事前にもしわかっていたら、結婚自体をしていなかったかもしれない。もしくは、その逆で結婚後すぐに彼をバックアップする選択をしていたかもしれません。

 

大学時代からの交際を実らせ結婚した国枝慎吾さんと愛さん

── 愛さんは、当時のご自身の仕事にやりがいを感じていましたか。

 

国枝愛さん:自分がやりたいことはなんだろうと初めて真剣に考えて行動したのは、社会に出てからです。新卒採用で入社した会社からの転職を考えて、いろいろ調べて行動していくなかで、ようやくいい会社に出合えました。「よし、ここで頑張ろう」と張りきっていたのですが、しばらくして、家庭の事情で退職することになりました。

 

もともと引っ込み思案の私が、初めて真剣に考え抜いて選んだ職場。それがダメになってしまったので、やりきれない気持ちでいっぱいになりました。その頃のモヤモヤした気持ちは数年間続きました。

「私にもできることがあるのかもしれない」夫の戦う姿が前を向くきっかけに

── どうやってそのモヤモヤを乗り越えられたのでしょう。

 

国枝愛さん:2016年に夫が肘を怪我したのがきっかけでした。引退を真剣に考えるほどの怪我を負った夫の姿を見て、彼が車いすテニスという競技で成し遂げようとしていることのすごさを、そこでようやく私も理解できたんです。

 

そのときの彼の弱った姿を見て初めて、「私にもできることがあるのかもしれない」と前向きに考えられるようになりました。そこからは海外遠征にも帯同するようになり、アスリートフードマイスターの資格を取得して毎日の栄養管理から日常のサポート全般まで、夫が競技に集中できるようにテニス以外のことはすべて私がやろうと決めました。

 

海外遠征に帯同するようになって、夫がどうやって「生活費を稼いでいるか」を目の当たりにしたことも大きかったかもしれません。試合に出場し、勝ち抜き、優勝して初めて賞金が手に入る。こんな大変な思いをして彼は勝ち抜いている=お金を稼いでいるんだ、と思うと、私ももっとできることがあるんじゃないかな、という気持ちが自然と湧いてきましたから。

 

優勝を引き寄せた!?ウィンブルドン決勝当日に愛さんが慎吾さんに握ったおにぎり

── 苦境にあって、家族としてチームで向き合う覚悟が固まったのですね。同時に、「内助の功」として世間から見られることにプレッシャーは生じませんでしたか?

 

国枝愛さん:私自身は、「内助の功ですね」と言われても特にイヤだとも感じません。自分がやりたいと思って、責任を持ってやってきたことなので。

 

ただ、すべてのアスリート夫婦が同じ選択をすべきだとはまったく思いません。夫はアスリートで、妻はフルタイム勤務、というご夫婦も現実にはたくさんいらっしゃいますから。妻だからといって家庭に入ってサポートしなければいけないわけではないし、夫婦で話し合って「ここはプロにお願いしよう」と外注できるところがあればそうすべきではないでしょうか。

 

── 話し合い、選び取る。そうしたコミュニケーションの努力こそが、夫婦というチームの絆を強めてくれるのかもしれません。慎吾さんが引退を発表した日に、愛さんが自身のSNSで「我がサポートに一片の悔いなし!!!」と表現されていた姿はとても清々しく感じられました。

 

国枝愛さん:そうですね。大なり小なり夫婦のモヤモヤはどこにでもあると思いますが、やっぱりパートナーと話し合い、それぞれが納得したうえで役割や責任を果たすことができるのがベストだと思います。

 

PROFILE 国枝愛さん

大阪府出身。大学時代からの7年の交際期間を経て、27歳のときにプロ車いすテニス選手の国枝慎吾さんと結婚。2013年にアスリートフードマイスター3級を取得。プロの第一線で活躍する夫を公私にわたってサポートし、「チーム国枝」の一員として2021年の東京パラリンピック金メダル獲得、2022年のウィンブルドン選手権初制覇の偉業に貢献する。2024年には夫婦で渡米予定。

 

取材・文/阿部花恵 画像提供/国枝愛