「母とは最期まで分かり合えなかった」と語るLiLiCoさん。9歳年下の弟が生まれた後に、両親は離婚。母との関係が修復できないまま日本に来たと言います。(全5回中の1回)
弟が生まれた後に、父が家を出ていって…
── LiLiCoさんは幼い頃、病気の弟さんの面倒を見ていたそうですね。
LiLiCoさん:9歳下の弟が生まれつきひどいアレルギーや喘息を患っていて、仕事で忙しい母に代わり、私が弟の世話をしていました。弟が生まれる前は平穏な家庭でしたが、弟の体が弱く、3歳までしか生きられないと聞いていたんです。母は弟の病気を心配するあまり精神的にどんどん崩れていき、耐えかねた父は家を出て行きました。
母は元々仕事をしていましたが、父が出て行ってからいっそう働くように。そのため、私は母に代わって弟が喘息の発作を起こすたびに病院に連れて行きました。
── LiLiCoさんは、お母さんに対してどう思っていたのでしょうか?
LiLiCoさん:母が精神的に不安定になったせいか、母から叱られたり、暴言を吐かれたりすることもしょっちゅうで、あまりいい感情はなかったです。本当は、私が学校でつらいことがあったときとか、母親にハグしてもらえたら、と思ったこともありますが、とてもそんなことを言える感じではなかったですね。
メールに死にたいと書かれて…
── ところで18歳のとき、お母さんと弟さんの住むスウェーデンを離れ、ひとりで日本に来たそうですね。なぜ日本に?
LiLiCoさん:日本で歌手になりたいなって思ったんです。10歳のときに、母に連れられて祖母がいる日本に来たときに、日本のアイドルたちをテレビで観ました。彼女たちがとてもキラキラと輝いていて、将来、私も大人になったら日本に来て歌手になりたいと思ったんです。
── LiLiCoさんが来日してから、スウェーデンにいるお母さんとはどのくらいの頻度で連絡を取っていたのでしょうか?
LiLiCoさん:平均すると1週間に1回程度でしょうか。母はよくメールに「死にたい」と書いてくるので気が滅入るんです。正直なところ、母とはあまり連絡を取りたくないと思ったことも。
── その後、LiLiCoさんが日本にいる年数が長くなっても、お母様との関係に変化はありましたか?
LiLiCoさん:変わらなかったですね。母は69歳のときに病気で亡くなりましたが、残念ながら関係が改善することはなかったです。
母とは最期までいい関係を築けませんでした。ただ、母を通してお金の価値について学べたことはよかったとは思います。母は、おこづかいをくれないかわりに、家の手伝いをすると少額のお金をくれました。早くから働くことの大切さを学んだおかげで、大人になった今も仕事では絶対に手を抜かない。全力で取り組んでいます。
弟が隠していた本音
── ところでお父さんは、LiLiCoさんが子どもの頃に家を出ていったそうですが、お父さんとは連絡を取っていたのでしょうか?
LiLiCoさん:父とは、母が亡くなってから連絡を取るようになりました。本当はもっと早くから連絡を取りたかったのですが、母が嫉妬するので会えなかったんです。母が亡くなった後に、私も弟もスウェーデンにいる父のもとに集まるようになりました。
── 弟さんは、お母さんに対してどう感じていたのでしょうか?
LiLiCoさん:弟も私と同じで、母に対してストレスを感じていたようです。父の80歳の誕生日を祝う機会があって、私がスウェーデンに帰ったんです。そのとき、弟と2人で初めて母について話しました。私は、弟が母の愛を一心に受けて育ったと思っていましたが、弟は母親からストレスを常に受けていたと。2分程度の短い会話でしたが、母について、弟と話をすることができたのは、私にとって大きな収穫でした。
とはいえ、母が自分のストレスを私たち子どもたちにぶつけていたのは、今でも残念に思います。母親って、自分の子どもから嫌われることって、一番怖いことだと思うんです。それをみずから嫌われるようなことをしていたのは、正直、亡くなった今も理解できないですね。
私は、母とは最期までうまく関係が築けませんでしたが、今は夫もいますし、甥や姪もいるので、周りにたくさん愛情を注いでいます。
PROFILE LiLiCoさん
スウェーデン出身。18歳で来日し、1989年に芸能界デビューを果たす。2001年から情報番組『王様のブランチ』で映画コメンテーターとしてレギュラー出演。2017年に俳優で歌手の小田井涼平さんと結婚。
取材・文/間野由利子