アクターズスクールに入るために交わした母との約束、小学生で東京行きの話が出た時の心境、SPEEDがデビューするまでの道のりを聞きました。
マイクを持ってコンコンって
── 3歳のときに沖縄アクターズスクールに入られたそうですね。その頃から歌やダンスに興味があったのでしょうか?
島袋さん:まだ言葉もうまく喋れないときから、歌ったり踊ったりすることが好きでした。自分で作ったメロディとか、意味のわからないデタラメな言葉でずっと歌っていたら、その様子を周りの大人が見ていて、アクターズスクールを教えてくれたんです。3歳の終わり頃に見学に行って「ここに絶対通いたい!」って母にお願いしました。
── かなり、ピンときたというか?
島袋さん:初めてマイクを持たせてもらったときの、音が出る喜びとか。マイクを持って歌ったり、マイクをコンコンって叩いたりしたら、アクターズスクールの牧野アンナさんに「(マイク)叩かない!」って怒られたのは覚えてます(笑)。
── 見学後、ご家族は島袋さんがアクターズスクールに通うことにすぐに賛成されましたか?
島袋さん:家庭環境がそんなに裕福ではなかったので、通わせるにしても月謝が掛かるし、定期公演というのがあって、衣装代とかチケットのノルマもあったりするので、早々にどうぞどうぞ、っていえる環境ではなかったんです。でも、母は私が歌ったり踊ったりしているときが一番幸せそうだって感じていたようで。
そこで、母と正座して向き合って…私の母とは、何か大事なことを話すときは、正座して向き合って話をする「儀式」みたいなものがあったんですけど。母が私を真っすぐ見ながら、雨だろうが、沖縄は台風が多いんですけど嵐だろうが、絶対にレッスンは休まないって約束してくださいって。10年やって芽が出なければ諦めましょうと約束しました。
──「10年やって芽が出なかったら…」という話は、もう少し大人…20歳前後のバンドマンやお笑いなどを目指す人の間でよく聞く会話かと思っていましたが、3歳にして。
島袋さん:(笑)。親と約束してアクターズスクールに通い出して、そのうち2回くらい休んだけど、それ以外は全部行きました。レッスンも夢中で頑張ったし、スクールのイベントがあると嬉しかったですね。
その後、アクターズスクールに入って9年目くらいだったかな。小学校5年生、11歳のときにデビューの声がかかりました。その頃には10年の約束は忘れていたけど、結果的にギリギリ、デビューへの切符を手にしました。
── SPEEDが結成された当時、島袋さんは11歳。メジャーデビューされたのが12歳、小学6年生でした。まず、沖縄から東京に上京する話が出たとき、どう思いましたか?
島袋さん:やっぱり嬉しかったですね。母には、こういう話をもらったんだけどって、また「儀式」ですよね(笑)。母と向き合って正座して、「私は絶対に東京に行きたい。夢を掴みたいから行かせてください」って頭を下げて。プラス、今の事務所の社長と4人で面談をしたんです。心配事はありますか?と聞かれたので、「ここまで長く親元を離れたことがないので、ホームシックになるんじゃないか。ちょっと様子がわからないし、東京に一気に行くのは不安なので、初めは沖縄から通う形がいい」といったことを伝えました。
── お母様ではなく、島袋さんの言葉で伝えたと?
島袋さん:自分で考えてちゃんと口に出して伝えるような、意思表示のハッキリした子どもだったと思います。これは母に対してお願いすべきこと、ここが心配材料、でも自分はこれだけのことがやりたいから夢を叶えるために必要とか、全部クリアにして伝えてましたね。
それは、元々の性格や家庭環境もあったと思いますけど、アクターズでもみんなプロになりたくて入ってくるので、プロとしての気持ちのあり方とか育て方っていうものも学んでいたんだと思います。
── お母様は東京行きに対して、なんと仰っていましたか?
島袋さん:反対もなかったですね。大人になって言われたのは、「あなたは自分が本当にやりたいことや、自分が覚悟を決めたことは、誰にも相談せずに自分で決めて、やるとしか言わない。小さい頃からお願いはするけどもう決めてる」と。
ただ、いざ東京に行く前日になって、原因不明の高熱と全身蕁麻疹が出たんですよ。どうしようどうしようと焦ったんですけど、沖縄独特のおはらい、煙を当てるようなものをお母さんがしてくれたらスーッと引いて。それくらい無意識に気持ちが高ぶったり、不安や緊張もあったんでしょうね。ただ、それ以上に東京に行ける、夢を叶えられるかもしれないことのほうが大きかったと思います。
また、事務所もはじめからすぐに正式デビューではなく、まずは『THE夜もヒッパレ』に出て様子を見て、感触がよかったら正式デビューという感じで話が進んでいきました。はじめは1週間ぐらい東京に行って、また沖縄に戻ってと、東京と沖縄を行ったり来たりしながら活動することになりました。
── 1人ではなくて、メンバーも一緒に行く安心感はありましたか?
島袋さん:1人じゃない安心感はあったと思います。ただ、元々7人とか9人くらいの子どもたちでイベントに出るチームがあって、その中の4人だったんですけど。よく一緒にいる仲間でしたが、ものすごくベッタリって感じではなかったのかな。まだお互いの様子を探りあっていた頃だと思います。でも、1人じゃない心強さはあったし、私はメンバーの中で一番年下ですが、一番上の(新垣)仁絵ちゃんは、みんなを見なきゃって緊張してたかもしれないですね。