社会問題や事件について、法律家の視点でわかりやすく解説する清原博さん(51)。色黒の顔から繰り出される独特の語り口を、情報番組などで見たことがある人も多いと思います。最近は、婚活やボディビルディングに励む姿も話題になりましたが、そんな清原弁護士の“意外な”経歴をみずから語ってくれました。
コロナ前は年間200回は飛行機に…
── メディア出演以外、普段はどんな仕事をしていますか?
清原先生:私は国際弁護士なので、海外の会社を買収したり、事業を興したりする業務に携わっています。
コロナの前は、年間200回は飛行機に乗り、世界各地を飛び回っていましたが、コロナ後はリモートワークが中心になりました。そのまま、リモートワークでも業務に支障がないことがわかったので、最近は海外に行くことはなくなり、国内の事務所での仕事が多くなりました。
── 移動の時間がなくなり余裕ができましたか?
清原先生:その通りです。海外出張をうらやましがる人もいますが実際は仕事と移動の繰り返しで、かなりハードなものです。それがなくなり、時間の余裕ができたので、このように取材対応をしたり、プライベートな時間ができたりと、最近はある意味、充実していますね。
小柄で病弱だった少年時代
── そんな清原先生の半生を伺いますが、どんな少年時代でしたか?
清原先生:富山県の山のふもとの田舎で育った、はなたれ小僧でしたね(笑)。
小柄で病弱だったので、野山を駆け回るというよりは、図書館で本を読むタイプでした。
でも、勉強ばかりしていたわけではないですし、親から勉強しろと言われた記憶もありません。
「企業の歯車にはなりたくない!」
── 弁護士や法律の世界を目指したきっかけを教えてください。
清原先生:弁護士を目指したのは大学3年のときです。高校時代から英語が好きで得意だったので、東京外国語大学の英米語学科に進みました。ただ、英語は単に手段にすぎないのではないかと考えるようになりました。
当時はバブル経済に沸いていたので、就職先は引く手あまただったのですが、企業の歯車にはなりたくないと、生意気にも考えました(笑)。
そこで資格を取って独り立ちしようと思い、せっかくだからと日本一難しい司法試験を受けて、英語を使った国際弁護士を目指すことにしました。だから最初から、法律自体に興味があったわけではありません。
「成績が優秀だったので裁判官に(笑)」
── 東京外語大から司法試験に合格した人は珍しかったのではないですか?
清原先生:私は2回目で合格しましたが、当時はほとんどいなかったと思います。
── その後、弁護士ではなく裁判官になったのはなぜですか?
清原先生:裁判官になるつもりはなかったのですが…、司法研修所の教官に声をかけられたというか…つまり、成績が優秀だったということです(笑)。
裁判官は、司法試験をパスした司法修習生のなかでも一部の人しかなれず、なりたくてもなれない人がいるのに、声がかかったので“やってみるか”という感覚でした。
── 相当、優秀だったんですね!?
清原先生:裁判官としての最初の任地が東京地方裁判所だったということからも、私は相当、優秀だったと思いましたね(笑)。東京地裁は、限られた人間しか行くことができません。
ただ、逆に言うとそれは私が無垢で世間知らずで、教官が言うことを丸飲みして、求める答えを素直に出していただけです。
他の修習生たちは、批判や解釈をする力があり、最高裁の判例でもさまざまな議論ができましたが、私にはそういう能力はありませんでした。
だからある意味、私は愚かで馬鹿だったと言うこともできると思います。
── 裁判官としては主に民事訴訟を担当したそうですが、仕事はどうでしたか?
清原先生:とてもダイナミックで、やりがいがありましたね。
新聞で報じられるような事件も担当しましたし、裁判官になり、ようやく社会には多くの課題や、悩みを抱えている人がいることを知ることができました。
── その後、検察官になったのはどういう経緯だったのですか?
清原先生:法務省に異動となり、身分は検察官ですが刑事事件を扱うわけではなく、法律を作ったり、国会や政治家の対応をしたりする法務省の官僚としての仕事でした。
これもとてもやりがいのある仕事で、後にカンボジアで仕事をするご縁もこのときにできました。
でも、当時の私は生意気を通り越して、思い上がりも甚だしい人間になっていたようです…。
PROFILE 清原 博さん
1970年富山県生まれ。国際弁護士。カンボジア政府法律顧問。むさし国際法律事務所所長。東京外国語大学卒業後に裁判官、検察官をへて米国留学。ゴールデンゲート大学ロースクール(法学博士課程)前期課程修了。ニューヨーク州、カリフォルニア州弁護士登録。カンボジアで法整備に尽力。
取材・文・写真/CHANTO WEB NEWS 写真提供/清原博