人は誰一人として同じ人がいないからこそ、気持ちの伝え方や関係性に悩むことがあるのかもしれません。

 

「子どもも大人もしんどくない保育」を目指し、SNS発信が話題の保育士・きしもとたかひろさんが、子どもと関わるなかで出会ったエピソードを元に、その子の気持ちの受け止め方や関わり方への思いを綴ります。

「あの子に来てほしくない」という言葉の理由


学童保育で何人かの子どもたちと公園へ行ったときのこと。その子は、仲良くしている子が公園には来ておらず、普段は遊ばない年上の子たちと遊んでいた。

 

そのあそびが思いのほか楽しかったようで、いつもにないテンションではしゃいでいた。

 

施設から追加で数名連れてくると連絡が入った。何人かの子どもたちが公園へ向かっていると聞いたその子は「〇〇ちゃん来てほしくないな」とボソッと言った。

子ども同士の人間関係も、大人と同じように複雑だ。仲のいい子達が集まっていても、そのなかで苦手意識が生まれることもあるし、たまたま遊んだのがきっかけでウマが合って交友関係が変わっていくこともある。

 

リーダーシップをとっていた子が、年上の子達とつき合うようになって末っ子気質を発揮したり、大人しくて控えめに見える子が実はグループの中心になりたいと憧れていたり、表面だけじゃ見えない意外なことばかりだ。

 

その子は「〇〇ちゃんが来たらきっと誘われるもん」と話してくれた。今やっているあそびが楽しいから誘われると困るらしい。もしかしたらそれだけでなく、グループ内で主張の強いその子に抑圧されている部分もあるのかもしれないと勘繰ってしまう。

 

普段はあまり誰かを拒否したり自分の気持ちを主張することがないので、そんな風に言う姿が新鮮で、半ば嬉しくもあって「断るの手伝うよ」と声をかける。すると、それは嫌なのだと首を横に振った。

 

そんなにその子のことが怖いのか。この子があまり我を出さないことをいいことに、主従関係のようになっているのだろうかと不安になる。

「怖いん?」という質問に「ううん、かわいそうやから」と答えたのを聞いて、僕は自分の浅はかさを知る。

 

仲良く見えるけれど主従関係があるんじゃないか、というような視点はいじめ等のリスク回避で必要だ。どれだけ楽しそうにしていても、そのなかでしんどくなっているかもしれないので、常に気にしている。

 

けれどいま僕は、その子たちの関係性をまったく見ることをせず勝手に「我の強い子」と「言いなりになる子」と見てしまいそうになっていた。

 

「一緒に遊びたいしな、断ったら一人になっちゃうから可哀想やん。けどな、楽しいからこのあそびもしてたいねん」とその子は言う。友達のことが怖いのではなく好きだから、思いを優先してあげたい。けれど今、自分はこのあそびがとても楽しくてやめたくない。

 

その葛藤のなかで、「それならいっそのこと、その子が来ないでくれたらいいのに」となったのだ。いまやっているあそびに誘えばいいのに、と助言しそうになって、それはその子の葛藤を無視した、ただ合理的なだけの答えではないかと思い、口をつぐむ。

 

誰かを思いやることを良いことのように思うのに、自分の思いを横において別の子の思いを優先しているのを見るとなぜだか良くないことだと考えてしまっている。その子に思いがないように感じ、勝手に、支配されているんじゃないかと思ってしまう。

 

自分の思いのまま遊びたいのも、友達の思いを優先してあげたいのも、どちらもその子の思いで、その葛藤に僕があっさりと答えを出してしまってはいけない。ましてや、勝手にその子たちの関係性を決めつけてしまってはいけなかった。

その優しさがその子自身をしんどくさせることもあるかもしれない、と懸念してしまうけれど、それもその子だ。僕ができるのは、その子の性格をとやかくいうことではない。しんどくなったときには助けてもらえる、と思ってもらえるようにするだけなんだ。

 

葛藤しているのなら、その葛藤に寄り添えるように、しんどくなっているのなら、そのしんどさに寄り添えるようにしたい。

 

しばらくして、その友達が公園に来ると、誘われる前に今やっている遊びをやめて駆け寄っていった。それがその子の本心なのかどうかはわからないけれど、本心が一つとも限らないよね。

 

大丈夫かな、と不安になりながら、その子たちの関係を見極めるのではなく見守るんだよ、と自分に言い聞かす。

 

文・イラスト/きしもとたかひろ