2012年に41歳で亡くなった流通ジャーナリストの金子哲雄さん。夫の遺志を継ぎ著書を完成させた妻の稚子さんですが、その後は「りんごを咀嚼する音すら忘れていた」ほどの深い喪失感に襲われたと振り返ります。自分のペースを取り戻すまでにかかった年月は10年。死の恐怖を乗り越え、いま前を向く妻の14年の歩みに迫ります。

夫が亡くなった後に残されたミッション

金子稚子 金子哲雄
2006年、流通やマーケティングの情報収集のために訪れたアメリカ・マンハッタンにて

── 流通ジャーナリストとして多くのメディアに出演された金子哲雄さん。「肺カルチノイド(肺神経内分泌腫瘍)」という希少がんのため、2012年10月に亡くなられ、今年で14年が経ちました。病気を公表せずに最後まで仕事を続け、生前には自身の葬儀までプロデュースしたことが大きな話題にもなりました。

 

金子さん:「流通ジャーナリストとして、自分の葬儀は間違えたくない」と、葬儀の仕切りを自分でやっただけなんですが、当時は「完璧な終活」と称賛され、多くのメディアに取り上げられました。

 

「終活」=「死ぬための準備」と捉えている方が多いのですが、ちょっとニュアンスが違うんですよね。簡単に言うと、彼が行った「終活」は残された人が生きていくための道標を作るようなもの。「僕が死んだあと、稚ちゃんがやることはこれだよ」と私がやることをあらかじめ伝え、ミッションとして残してくれたんです。生前から死について夫婦で話し合うことは、夫婦の結びつきを強くする行為だとも実感しました。

 

── 哲雄さんが生前から執筆をしていた著書『僕の死に方 エンディング・ダイアリー500日』の制作は死後、稚子さんが引き継いだそうですね。

 

金子さん:本の「あとがき」も書きましたが、どうやって書いたか覚えてないくらい大変な作業でした。でも、この仕事があったから救われた。気持ちが切り替えられ、本が翌11月に発売されるまでの1か月半、深い悲しみの場にとどまり続けなくてすみました。

自分のペースに戻るまでは10年かかった

金子稚子 金子哲雄
2008年ごろに初めて参加したホノルル・センチュリー・ライドにて

── 本の制作が終わってからはいかがでしたか。

 

金子さん:しばらくはほぼ廃人でした。自分の身体の一部がもぎ取られたぐらいの痛みがありました。

 

夫が亡くなって3か月後、年明けにスーパーに並んでいた山盛りのリンゴを買ってきて食べたら、リンゴをシャリシャリ咀嚼している音が突然、耳に飛び込んできました。音が聞こえるということすら、しばらく忘れていたのだと思います。

 

そして、夫の死から半年後の4月、公園で桜のつぼみを見たときに「夫がいなくなろうが、私がどれだけ悲しかろうが、ときは流れ、春は訪れ、桜は咲く。私はこのリズムに乗っていけばいいんだ」と、夫の死後、初めて頼れる何かを見つけた瞬間があって。それから少しだけ、力が湧いてきました。

 

ただ、本当の意味で自分のペースに戻れたのは最近のことです。夫の死から距離が置けて心身ともに軽くなり、ようやく自分らしく動けるようになるまで10年くらいかかりました。

 

今でも夫を思い出して涙を流すことがあります。夫との出来事を思い出してつらくなる涙もあれば、夫が家電について熱く語っている姿を想像して温かくフワッとした気持ちで流す涙もありますね。

 

── そのときによって、涙の種類も変わるのですね。旦那さんの存在を感じることもあるそうですね。

 

金子さん:夫から亡くなる直前まで「僕が絶対に守るから大丈夫」と強く約束されました。死ぬ間際の人に励まされるのもおかしな話なのですが。でも、夫の強い意志を感じたからこそ、夫が亡くなった後も、いつも私のことを見てくれている気がします。

 

また、夫の生前の約束だからかはわからないのですが、「ここ一番」というところで必ずトンボが飛んできます。今日もこの取材を受ける前にトンボがきて、夫の存在を感じました。人によって現れる生き物は違うようですが、夫が出演していたテレビ番組のプロデューサーが夫の墓参りに行ってくださったときは大きな蝶が現れたそうです。さらに、連載をしていた出版社の担当者の方が夫の思い出話をしていたときには、お店の中なのに大きなハエが出てきたそうで、その都度、みなさん夫の存在を感じて連絡をくれます。

 

私にとっては、夫がいなければおつき合いすることのなかった方々です。亡くなった夫がつないでくれた新しい関係だなと感じます。