テレビでは「ダイエットした」と偽って

── 当時、テレビでは「ダイエットした」と仰っていました。あえて病気を公表しない選択をされたそうですね。
金子さん:私は体を休めてほしかったので「病気を公表してほしい」と思っていました。でも、夫は「死ぬ寸前まで、病人ではなく流通ジャーナリストとして生きたい」「人前やメディアの前では健康な自分に戻ることができる。それが生きる力になるから」という理由で公表しませんでした。夫は「仕事は僕にとっての薬」と言うほど、仕事に熱中していたんです。
夫のマネジャーも「金子さんは周りから気をつかわれると精神的に落ち込むから」と、病気を公表しない考え方に賛同していて。「たしかに、仕事を辞めてしまったら本人らしくなくなってしまう」と私も腹をくくりました。
── 稚子さんはその2年前にお父さんをがんで亡くされています。お父さんの経験も影響されたそうですね。
金子さん:実は、嫌がる父親に抗がん剤を強く勧めた過去があるんです。医師から抗がん剤治療を勧められたとき、私も同席していたのですが、父はその席で嫌だとはっきり意思表示していました。でもその姿を見て、私は先生に「抗がん剤をしなかったら、その先はどうなるのでしょうか?」と尋ねたんです。医師は私の質問に対して「1年半…といったところでしょうか」と答えました。つまり命に関わると、私は医師の口を借りて父に伝えたことになります。わかっているの?と。あとから、あのやり方はなかった…と後悔しましたが。
その後、父は抗がん剤治療を受けることになったのですが、実家に帰るたびにどんどん痩せて、最後には起き上がることもやっとの父の姿を見て、私は「なんてことをしてしまったのだ」と強く後悔しました。緩和ケアなどの知識もなく、またその知識を得ようという考えにも及びませんでした。
本来、治療の選択も含めて、その人の生き方を決めるのは、その人自身のはずです。たとえ娘であっても、自分の思いを押しつけるべきではなかった。本当に無知で浅はかだったと思っています。だから今度は、夫の意思を尊重し、全力で応援する覚悟を決めていました。父の死の経験がなければできなかったことだと思います。
がんが発覚した後も夫が妻に言い続けた「言葉」
── 哲雄さんは仕事を続けながら、ご自身で気持ちも整えていたそうですね。
金子さん:夫は自分の写真をほぼ撮らない人なんですが、亡くなった後、自撮りの笑顔の写真が数枚出てきました。写真は確定診断を受けた夜に撮ったものでした。診断後、大阪で講演があり、翌朝は生放送の番組に出演しました。確定診断を受け、憔悴しきっているところから、すぐに公の場に出られるように自分自身を引き上げなければならない。笑顔を作って気持ちをリセットし、仕事に向かったのはすごいと思いました。診断から2週間後には「僕はこういう人生なんだ」と自身の運命を受け入れたかのように、いつも通りの夫に戻っていました。
── 稚子さんは哲雄さんをどんな形でサポートされていたのですか。
金子さん:夫たっての願いで、私も仕事を続けていました。当時、私はデザイン会社の役員をしていたのですが、夫から「とにかく迷惑をかけっぱなしだから、仕事まで犠牲にさせたくない。稚ちゃんの会社の人にも迷惑をかけたくない」と言われていたんです。仕事を続けながら、自分ができるサポートを全力で続けました。
── 気配りの人なのですね。闘病中の哲雄さんは、どのような日々を送っていたのでしょうか。
金子さん:変わらなかった、と言ったら語弊があるでしょうか。でも、仕事を続けながら毎日を全力で生き抜いていた感じですね。と言っても、病気が進んでいくといろんなことができなくなっていきます。それでも、常に私のことを大切にしてくれた。たとえば、道を歩いているときは必ず車道側に立つ。歩くのも大変だったときでさえ、病人ではなく夫として、これまでと変わらず、フラフラしながらも私を守ろうとしてくれていました。のろけになってしまいますが、病床にあっても夫は「僕が稚ちゃんを守るから!」と言い続けていました。
── 愛されていたことがよくわかるエピソードです。
金子さん:しかも「ありがとう」という感謝の言葉が常にあふれていました。これも病気がわかる前と後とで変わらなかったことです。夫の看病で睡眠不足のため私が寝室で転んだときも夫はパニックになり、「迷惑をかけて申し訳なかった。自分のせいで稚ちゃんの人生を大きく変えてしまった。申し訳ないと言い続けても何も変わらないし、何もできないから僕はありがとうしか言えない」と気づかってくれました。最後まで生きることをやめなかった夫が遺してくれた想い。出会ってからずっと、そして今も亡き夫に守られている実感があります。
取材・文:岡﨑優子 写真:金子稚子