全国の不登校児は12年連続で増加、2024年度の小中学生は100人に3.8人が不登校という実情があります。実業家として活躍する小幡和輝さんもそのひとり。幼稚園の頃から行き渋りがあり、約10年不登校を経験しました。「3引く5はマイナス2と答えたら、クラスが沈黙した」という小幡さん。当時言葉にできなかった「学校への違和感」があったといいます。

「3引く5はマイナス2」で小学校の教室が静まり返り

── 小幡さんが完全に不登校になったのは、小学校2年生の2学期だそうですね。きっかけは何だったのでしょうか。

 

小幡さん:僕の父親は当時中学校の教師で、母親も学生時代は家庭教師をしていました。教育熱心な家庭だったと思います。ただ両親に勉強をしいられて反発したとかいうことはなくて、勉強は好きで好奇心も旺盛でした。ゲームも漫画も好きだったので、小学1年生にして数の概念も理解していたし、難しい漢字も読めました。

 

もともと幼稚園の頃から集団生活に違和感があったんです。自分が没頭している遊びを途中でやめさせられたり、決められた時間に決められた行動を求められたりする。それが嫌で、行き渋っていました。

 

小幡和輝
5歳ごろ、七五三姿の小幡さん

小学校に入ると「学校が嫌い」という気持ちがはっきりしてきました。今でもよく覚えているのが、クラスで雑談をしていて「3引く5は?」と話題になったときのことです。僕はゲームでマイナスという概念を知っていたから、「マイナス2」と自信をもって答えました。「ちょっと尊敬されちゃうかな」なんて内心思っていたのですが、結果は全然違いました。みんなマイナスの概念を知らないからキョトンとして、その後沈黙してしまったんです。間違ったことを言っていないのに、その場の雰囲気を悪くしてしまった。そのことに戸惑って、とても心細くなりました。

 

成績がめちゃくちゃよかったというとそうではなく、まぁ平均より上だったとは思いますけど、知識が周りの子より多かったんですよね。でも「マイナス2を理解してもらえなかった」経験から、普段の会話でも自分をおさえて話すようになって。居心地がどんどん悪くなってしまったんです。

 

── 幼稚園時代から行動を制限される集団生活に反発をしていたのに、居心地も悪くなってしまった。

 

小幡さん:とにかく学校が合いませんでした。今思えば勉強にカリキュラムがあるのもいやで。深掘りして学びたいと思っても、全体の進捗によって制限されてしまう。逆に苦手な分野は注目されて「もっと勉強しなきゃ」と言われる。得意科目で150点取れる能力があっても、テストは100点までしかない。100点を超えた50点分はノーカウントなんですよね。「この科目は100点じゃなくて150点取れる。できない科目は50点、できる科目は150点、合計200点、それでいいじゃん」ってすごく思ってたんです。当時はここまで言語化できなかったけど、そこにモヤモヤしていました。

一番つらかったのは「両親に理解されなかった期間」

── モヤモヤした気持ちを表現できないまま不登校になっている子どもは今も少なくないと感じます。いっぽう、学びの多様化による過渡期のなか、保護者は意識を変えていく必要がありますが、「わが子のこと」となるとなかなか難しい。小幡さんが不登校になったとき、ご両親はどんな反応でしたか。

 

小幡さん:僕が不登校をやって一番つらかったのは、不登校の初期、両親に理解してもらえなかったことです。最初からスムーズに休めたわけじゃなくて、毎朝両親と口論になっていました。「どうして行かないんだ!」と聞かれても「なんとなく…」としか返せなかった。

 

無理やり登校させられることが続いていたある日、同級生に殴られたんです。当時のことはつらすぎたせいかあまり覚えておらず、理由ははっきりとはわかりませんが、好き勝手休んでズルいと思われたのかもしれません。僕の実家がある湯浅町は人口1万人くらい、学区のコミュニティーも小さいので「不登校」という情報はあっという間に広がるんです。だから目立ってしまっていたんでしょうね。

 

この件は、学校でも問題になりました。「息子が学校で殴られた」ということは両親にとっても大きな出来事だったと思います。

 

それまでも僕は「いじめられていた」と思います。だけどまだ小学生低学年でしたし、両親にうまく伝わらなかった。だからこの件をきっかけに両親が僕のつらさに気づいて、不登校を容認してくれたときには心底ホッとしました。当時は追い詰められて、頭にふと死がよぎったこともあるほどだったので…。

 

それからはすごく生きやすくなりました。たまに「適応指導教室」に行ったり、家でゲームをしたり、近所に住んでいた気の合う5歳上のいとこと遊んだり、気が向いた修学旅行には参加したり。自分のペースで小中学生時代を過ごしました。

 

── ご自身の経験を通じて、「子どもが学校に行きたくない」と言ったとき、保護者はまずどう対応したらいいでしょうか。

 

小幡さん:不登校の話に関係なく、子どもの本心やその周辺をどうくみ取ってあげるかだと思います。やっぱり子どもって語彙力とか経験とか、大人より圧倒的に少ないですから。「子どもの気持ち」を考えてやることが、そばにいる保護者の一番大事な役割です。

 

ご褒美やペナルティーを与えることで登校させようとする話も聞きますが、一時的に登校できても、子どもが抱えている違和感の解決にはなっていません。無理やり登校させた結果、子どもの心の傷が深くなって、元気を取り戻すのにずっとずっと時間がかかってしまう。「行かせる方法」を探るのではなく、「なぜ行きたくないのか」を大人が一緒に考えてあげるほうが、子どもの安心につながります。

 

理由の解明だけにこだわらず「学校以外の居場所」を用意してあげることも大切だと思います。社会人でも、自分に合わない職場で働き続けた結果病んでしまうことってありますよね。働くこと自体が嫌だったわけではなくて、職場が合わなかっただけで、転職したらうまくいくみたいな。場所を変えたら輝けるパターンっていうのは山ほどあります。

 

僕は約10年と長い間不登校でしたが、学校以外に居場所があったのがすごくよかったと思っています。いま、たくさんの不登校の子どもたちと話しますが、学校以外に友だちがいる子はとにかく明るい。逆に家でひとりでいる子はやっぱり元気がないんですよね。

 

息子が不登校であることに、父は教師としても葛藤があったと思います。たとえば、教え子が不登校になっても「学校へ来なさい」とは言いづらい。「自分のところをどうにかしろ」って言われてしまいますし。それなのに、父なりに理解してくれて「適応指導教室」に通わせてくれた。だから、今ではすごく感謝しています。

 

小幡和輝
小幡さんが高校時代に企画した地域活性化ワークショップイベントにて。楽しそうな笑顔が印象的

環境を変えることは、子どもだけではできません。保護者が「学校以外の居場所」を見つけてあげることが、具体的な手助けになると思います。

不登校は「社会が成熟した証」でもある

── 小幡さんは10年の不登校時代を経て高校生で起業され、その後もさまざまな事業を展開されています。不登校児支援にも長く関わっていらっしゃいますが、不登校が増えている現状をどう見ていますか。

 

小幡さん:やはり社会の変化ですよね。僕の頃より不登校児の数は3倍くらいになっていますが、文部科学省が「無理に登校させない」と指針を出したように、社会が不登校を認める方向になっています。不登校児をサポートする施設、今は教育支援センターという名称ですけど、僕のときは「適応指導教室」でした。不登校は悪いもので、学校に行くのが正しいとされていた。けれど、今はオンラインもフリースクールもあって、学びの選択肢が増えたから学校にこだわる必要がなくなっているんじゃないかなと思います。

 

── コロナ禍でネット環境は急速に普及しました。

 

小幡さん:そうですね。一斉休校になって子どもたちは家にいながらオンラインで学級に参加したり、勉強したり。当時ゲームではマインクラフトとかフォートナイトが流行っていましたが、学校で会えなくなってしまった友だちと、フォートナイトの中で集まって、普通にワイワイ遊んでる、みたいな光景がたくさんありました。そういう経験をして、社会も子どもも「学校に行かなくても意外に大丈夫」って気づいたんだと思います。

 

今の大人世代が子どもの頃は、不登校になるってすごく大変なことだったと思うんです。今みたいにネット環境やフリースクールもない。だから学校にすごく価値があって多少無理してでも行ったほうがよかった。もちろんその経験は否定しませんが、学びや居場所の選択肢が増えた現代では、あの場所にこだわる必要はないんですよね。

 

これは社会が成熟した証でもあります。発展途上の国が学校を作って子どもをいっせいに教育するという時期は終わって、各家庭が子どもにあった教育を選択していく、今はその過渡期にあるんじゃないかと思います。

 

取材・文:堀合優子 写真:小幡和輝