2016年リオ・パラリンピックで5位入賞を果たした近藤寛子さん。しかし、その2年前に「一緒にリオに行こう」と約束していた最愛の夫・秀彦さんを亡くします。「応援してくれた夫の最期の瞬間も私は走っていた」と罪悪感にも苛まれ、一時は引退を決意しますが、長男の愛ある叱咤が近藤さんの人生を大きく動かします。
最愛の夫の最期に「私は走っていた」という罪悪感

── 34歳の時に視野が極端に狭くなる網膜色素変性症と診断された近藤さん。医師には「いずれ全盲に」と宣告され、一時は家に閉じこもる生活を送っていました。それがブラインドマラソンに出会い、競技に打ち込む過程で押し殺してきた感情も吐き出せるように。「次はもっと速くなりたい」と次第に競技にのめり込み、ついには49歳の時に2016年にリオ・パラリンピックに出場されました。
しかし、その2年前には最大の理解者だったご主人の秀彦さんが急逝。当時、その現実とどのように向き合われたのでしょうか。
近藤さん:主人が倒れたのは、私が滋賀県の大会で自己ベストを出し、仲間と打ち上げをしている最中だったんです。連絡を受けて駆けつけた時には、もう…。主人は旅行がすごく好きだったんです。でも私がマラソンで大会や練習に忙しかったので、家族旅行も我慢してくれて。「みんなでリオ(パラリンピック)に行けばいいやん」と応援してくれていたんです。そんな彼の最期の瞬間に私は走っていた。その罪悪感から一度は陸上を辞める決意をしました。
── それは、つらかったですね。
近藤さん:主人が亡くなった時に「お父さんがいないのに走る意味なんてない」と子どもたちに漏らしたんです。その時、長男に烈火のごとく怒られてしまって。「リオに行って走る姿をお父さんに見せるって約束したんちゃうんか」「そんな弱気なおかんを、親父は見たくないぞ」と。その言葉で目が覚めましたし、走ることは私ひとりの楽しみではなく、夫との約束であり家族の使命に変わったんです。
生涯忘れることができない体験
── リオ・パラリンピックの切符を掴んだ2016年2月の別府大分毎日マラソンでは不思議な体験をされたそうですね。
近藤さん:生涯忘れることのできない体験をしました。その日はすさまじい向かい風だったんですが、他のランナーはみんな風に押し戻されると苦しんでいました。でも、私はまったく風を感じなかったんです。それどころか背中を誰かにグイグイと押されているような感覚があって、後半にどんどんタイムが上がっていきました。あれは間違いなく、主人が「行け!」と背中を押してくれていたのだと、今でも確信しています。
── ご主人の他界などがあったなかで、リオへの切符を掴むまではどのようなメンタリティで臨んでいたのでしょうか。
近藤さん:当時の私は強化指定選手の基準である3時間30分をなかなか切れない、世界的には無名の選手でした。それでも私はリオを走っている自分の姿が、完全にイメージできていたんです。リオでは選手村に入ってからも、部屋には主人の写真を置き、毎朝「おはよう、お父さん」と話しかけていました。主人はいませんでしたが、まるで傍にいてくれるようで、日々を支える小さな心強さになっていました。だからか不思議と不安はなかったんです。根拠はないんですけど「走れない気がしない」という強い自信がありました。結果、リオの厳しい暑さの中でも、私は主人の写真を胸ポケットに入れて一緒に走り、5位入賞を果たすことができました。