全盲のママランナーに打ち明けた不安
── そんななかで、ブラインドマラソンとどのように出会ったのでしょうか。
近藤さん:2004年に障がい者認定を受けたときに冊子をいただいたんですが、その冊子の記事でブラインドマラソンの存在を知って。そこに記載されていた滋賀県の障がい者スポーツ協会に電話をして、びわこタイマーズというランニングクラブを紹介いただいたんです。そのクラブには全盲でありながらふたりのお子さんを育て上げた女性がいらして、「私は目が見えなくなったら、子どもたちを育てる自信がない」と打ち明けたんです。すると彼女は「大丈夫ですよ」と言ってくれたんです。その明るい言葉を聞いて、「私にもできるんじゃないか」と希望を持つことができました。
── ランニングクラブへの入会を決めたのは、練習に参加してマラソンの楽しさを感じたからですか。
近藤さん:実は20歳の頃にロードレースで10km走ったことがあったんです。その時は練習もしなかったのに意外と走れてしまって、その記憶が残っていたのも多少関係しているのかもしれません。走ること自体がもともと嫌いではなかったですし、冊子にあった「伴走者と走れる」という言葉にひかれました。初めての練習では1キロも走れず息が上がってしまいましたけど、そこにいた視覚障がい者のランナーの方々は驚くほど明るくて、それに衝撃を受けましたね。
── 家に引きこもっていた頃のことを考えると、ランニングクラブに入ることは大きな決断だったと思います。
近藤さん:ただ、1キロも走れずに立ち止まった私に、周囲の人たちはすぐさま駆け寄ってくれました。ストレッチを教えてくれたり、深呼吸をうながしてくれたり。その温かさに触れて、「ここなら私も変われるかもしれない」と、その日のうちにランニングクラブに入会することを決めたんです。結果的にその日も休み休みながら、3キロほどを走ることができたんですよ。
── 当時はまだ全盲ではなかったものの、視界は極端に狭かったため、走るときには伴走者が必要でした。のちにリオ・パラリンピックで伴走者を務める川嶋久一さんとの出会いもこの頃だったんですか。
近藤さん:ランニングクラブに入会した翌年の春、ある練習会でのことでした。当初ついてくれていたガイドの方が途中でバテてしまい、たまたまひとりで走っていた川嶋さんに交代したんです。彼は「伴走者がいると思わずに、思いっきり走ってごらん」とアドバイスしてくれました。その時、全力で腕を振り、風を切った瞬間、誰にも頼らずひとりで走っているような、不思議な解放感と一体感を覚えたんです。
それまでの私は人に頼ることが苦手でしたが、伴走者という信頼できる人に身を委ねることで、初めて自分の力を100%解放できることに気づきました。
── ブラインドマラソンを始めた時、ご主人やご家族はどんな反応でしたか。
近藤さん:「明るくなった、元気になった」と言われましたね。だから主人も「行ってこい」と快く練習や試合に送り出してくれて。練習会場への送り迎えに関してもすごく協力的でしたね。
初マラソンで「押し殺してきた感情」溢れ出し

── 初マラソンは3月の丹波篠山ABCマラソンでした。どのような経緯で挑戦を決めたのですか。
近藤さん:実は当初、あるテレビ番組の企画でホノルルマラソンに挑戦する話が進んでいました。でも、直前になって企画自体が立ち消えになってしまったんです。普通ならここで諦めるかもしれませんが、私は「せっかく練習したんだから」と、自力で別の大会(丹波篠山ABCマラソン)を探しました。 本番に向けた10月の練習で4時間走に挑み、39キロを走破しました。そこで「いけるかもしれない」という手応えを感じたんですが、本番は壮絶でした。
走りながら「なんでこんな苦しいことをしているのか」「二度と走るもんか」という言葉が頭の中を渦巻いていました。それでもゴールテープを切った瞬間、すべてが吹き飛びました。溢れ出たのは、それまで押し殺してきた不安や葛藤などの感情すべて。涙が止まりませんでした。二度と走らないと思っていましたが、数分後には「次はもっと速くなりたい」という気持ちに変わっていましたね。
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視覚障害の認定取得をきっかけに、障がい者マラソンの存在を知り、本格的にマラソンを始めた近藤さん。しかし、リオ・パラリンピックを目指して「さあ、これから」という時期に最愛の夫が突然の他界。当初、競技を辞めることを考えていましたが、長男の愛ある厳しい言葉に「目が覚めた」そう。家族の使命として、世界の舞台を駆け抜けることになります。
取材・文:石井宏美 写真:近藤寛子