「みんな、公には『障害者を助けましょう』ときれいごとを言いながら、プライベートでは関わりたくないと思っているのでしょう」。障害のある兄を持つ「きょうだい児」の白井俊行さんは「本音と建前」が蔓延する社会に直面してきたそう。いわゆるきょうだい児としての「正解」を押しつけられながら、本音すら吐き出せず過ごした幼少期を振り返り──。

兄のてんかんの発作で食卓が毎回、修羅場になった

── 健康だったお兄さんが10歳のときに高熱を出して、その後遺症で知的障害と難治性のてんかんを患われました。当時白井さんは6歳でしたが、その状況をどう感じていたか覚えていますか。

 

白井さん:当時は両親と父方の祖母と兄の5人で暮らしていたのですが、ある日学校から帰ってくると家に人が誰もいなくて。その日からしばらく、隣の家や親せきの家で晩ご飯を食べさせてもらっていた記憶があります。兄は数週間入院していて、共働きの両親と祖母が時間をやりくりしながら、つきっきりで看病していたようです。詳しいことは聞かされていなかったので、「兄は入院していて学校に行かなくていいんだ、うらやましいな」くらいの感覚でした。

 

── お兄さんの障害とてんかんの程度はいかがでしたか。普段からケアが必要な状態だったのでしょうか。

 

白井さん:基本的な生活は普通の子と変わらずできていました。障害を負ったとき兄は小4でしたが、知能的には小1、2ぐらいに逆行してしまって。通っていた小学校に特殊学級が併設されていたので、兄は普通学級から特殊学級に移って通学を続けました。

 

いちばん大変だったのは、てんかんの発作が起きたときです。突然全身の筋肉が硬直して失神してしまうので、転倒して頭を打つことがあり、途中からヘッドギアをつけていました。発作で体のコントロールが効かなくなるので、失禁することもありました。

 

食事中に発作が起きるとダイニングテーブルに頭を突っ込んで、食べ物や食器が全部ひっくり返り、鍋物の場合は熱湯が降りかかるということが頻繁にありました。そのたびに母親や祖母が、窒息を防ぐために兄の口の中から食べ物を出して、横にさせてあと片づけをしていました。

 

てんかんはいつ起こるかわからず、まったくない日もあれば、1日に何度もあったりと波があって、悪くなると強めの薬を飲んでいました。最初は発作を見るのが怖かったですが、繰り返すうちに日常風景になって、「またか…」という思いになっていましたね。

兄を溺愛する母と、兄を無慈悲に叩く父親

── 大変な日々でしたね…。兄弟姉妹に障害のある子がいると、お母さんはその子にかかりきりになってしまうと思うのですが、「平等に見られていない」とか「注目されていない」という感覚はありましたか。

 

白井さん:母は兄を溺愛していて、「大人になってもお兄ちゃんはずっと私のもの」とよく言っていました。振り返れば母親の僕への関心は低かったと思いますが、当時はそれが当たり前で、「もっとこっちに注目してほしい」とは全然思っていなかったです。

 

小学校高学年ぐらいからはだいぶ気持ちが冷めていて、学校で起きたことや、その日あったことも、母親に話すことはありませんでしたし、僕が何が好きで、何が得意かということも自分からは言いませんでした。兄が障害を負ってからは習い事もいつの間にか通わなくなり、家族で旅行やレジャーに行った記憶もありません。そのころ、母親がママ友に「この子は全然手がかからないの」と僕のことをすごく自慢していたことを覚えています。

 

白井俊行
幼少期のことを思い出しながら、一つひとつ言葉をつむぐ白井俊行さん

── 障害のある兄弟姉妹を持つ「きょうだい児」は無意識のうちに親に迷惑をかけないように我慢したり、気を使っているという話はよく聞きます。白井さんはお兄さんに対するマイナスな感情も膨らんでいったと。

 

白井さん:兄は知的障害を負ってから性格がすごく意地悪になって。僕に対していやがらせをしてきたり、ひどい悪口を言ったりするようになり、嫌悪感が強まっていきました。あとは所かまわず童謡を全力で歌うので、一緒に外出したくなかったですし、学校で兄が周りの友達からかわれているのを見るのも、恥ずかしくて嫌でした。

 

父親も兄に対して、かなりマイナスの感情があったと思います。父は家事も兄のケアもいっさいせず、それどころか兄が言うことをきかないと暗いところに連れていって、激しく叩いていた時期がありました。当時は家族のなかで父は絶対的な存在で、兄が悪いことをしているから叩かれるのはしょうがないと思っていました。