「どうせすぐ帰ってくる」。母がそう笑って送り出した芸人人生は、25年も続きました。23歳で父を亡くし、新潟でひとり残された母。タイムマシーン3号・山本浩司さんは当時、「芸人を辞めて実家へ帰るべきか」と本気で葛藤しました。そんな弟の夢を守ったのは、ホテルマンとして働いていた兄の「ある決断」のおかげでした。現実を背負った兄と、夢を叶えた弟。再ブレイクを果たした芸人の知られざる家族の絆。
「今だけだから」母が許した芸人人生が25年続き
── 美容室を切り盛りされているお母さんは公式YouTubeにも登場されています。山本さんが芸人を目指して上京されたときからずっと応援していらっしゃるとか。
山本さん:いや、最初は「フレー!フレー!」って応援してる感じではなかったですよ。新潟から東京に出てきてお笑いやるなんてね。もし自分の子どもがそんなこと言い出したら、「夢を追って頑張ってね」なんて送り出せるとは到底思えないですし。

母の場合、「とりあえず、今そんなにやりたいなら、やらせてやるか」くらいの感じだったんだと思うんです。僕自身「一生これで飯食っていくんだ。もう実家にも帰らない」という感じじゃなくて。そこまで強い決意を持つような人間でもなかったですから。
ただ、母から聞いた話では、父は反対していたようです。両親の間でそんなやりとりがあったときに、母が「まあ、いいじゃない。今だけよ。どうせすぐ帰ってくるから」みたいな感じでいなしたんでしょうね。当時は誰も、まさかここまで続くなんて思ってなかったと思います。
── お笑い芸人になることを反対されていたお父さんは、山本さんが芸人としてデビューしてまもなく亡くなったそうですね。活躍されている姿を見せる前だったとか。
山本さん:テレビに出られるようになったのは、芸人になってから3~4年経ったころで、父親はその前に亡くなったんです。だから、僕がテレビに出演した姿をいっさい見ていません。亡くなった当時、僕はまだ23歳でした。だから、父親とひざを突き合わせて酒を酌み交わした、みたいな記憶もないんです。そもそも寡黙な父親で、お笑いの話もほとんどしたことなかったな。
父は、僕が芸人になること自体は反対していたみたいだけど、応援する気持ちがないわけじゃなかったと思うんです。僕は高校時代もお笑いの真似事をやっていて、地元のイベントに出演したことがあって。大物ゲストとして爆笑問題のおふたりがゲストに呼ばれていて、僕は新潟で活動している芸人として前座を担当したんです。そこに父親を招待したら、見に来てくれて。でも、ネタを見て「なんだ、くだらない」って言って、全然、笑わなかったらしいんですけどね。
デビューしてしばらく経ったころ、NHKの『爆笑オンエアバトル』に出演させてもらえるようになって、けっこうウケてたんです。満点を取ったこともあるんですよ。新潟でも放送されていたんですけど、父は見られなかったみたいで。それはちょっと悔やまれます。