携帯で検索したら…「私って難病だったの?」

── ご自身の病気のことを知ったのはいつですか。
大河内さん:高校に入ってすぐのころです。ずっと気になっていたので、携帯を買ってもらって「カフェオレ斑」を検索しました。そうしたら、「レックリングハウゼン病」というワードが出てきて。そこに書いてあった症状が、自分にあてはまることばかりだったので、びっくりしました。「私って難病だったの?」って。
母と一緒に大学病院を受診して、レックリングハウゼン病と診断されました。ただ、このときは「治療法はない」「カフェオレ斑はレーザーで消そうとしたら、今より目立つかもしれない」「腫瘍は取れるけど増えてくるし意味はあまりない」と言われただけで、次の治療につながることもなかったし、合併症のリスクがあるという説明もありませんでした。治らないのはショックでしたが、「命に関わらないなら、まあいいか」という気持ちでした。
── 高校でも、いじめはあったのでしょうか。
大河内さん:高校に入ったら、露骨ないじめはなくなりました。アーチェリー部に入って部活もがんばっていました。でも、またいじめられて傷つくのが怖くて。心を開けなくて、どこかみんなと距離を置いていたような気がします。高校生活を楽しむより、一刻も早く「ガラスの世界」へ行きたかった。入学式の日に「早く卒業したい」と思ったのは、そこが私にとってのゴールではなく、夢への通過点に過ぎなかったからです。
── 夢をかなえるために、大学へ進まれたのですね。
大河内さん:高校卒業後、名古屋芸術大学に入学して、念願のガラスを学べるようになったときは嬉しかったです。小中高の暗闇から、一気に明るい世界に出られた気がしました。ガラス制作にはお金がかかるので、早朝パン屋でバイトをして、バイト代を材料費にあてて制作をしました。作品は展覧会に出品したり、学祭で販売したり…。クリエイティブな活動をしている仲間もできて、充実していました。
でも、病気のことは誰にも言えませんでした。手の甲にあるプク(腫瘍)を「これ何?」と同級生に聞かれたことがあるのですが、いじめられていたときのことがフラッシュバックして、病気で全身にシミや腫瘍があると知られたら「気持ち悪い」と思われるかもしれないと怖くて。「生まれつきなんだ」としか言えませんでした。
いじめは本当につらかったし、いじめた子の名前は今でも覚えています。でも、彼らに私の人生を奪わせなかったのは、あのときにしがみついた「夢」という武器があったから。その夢を現実に変えたことで、ようやく過去を乗り越えられた気がします。
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学校という場所が、ときとして逃げ場のない戦場になることがあります。 大河内さんにとって、その地獄を生き抜くための盾となったのは「ガラス作家になる」という執念にも似た夢でした。 もし、あなたが理不尽な環境に置かれたとき、自分自身を守り抜くための「武器」や「居場所」を持っていますか?
取材・文:林優子 写真:大河内愛美