脱サラして夢を追う──。言葉ほど容易でないその選択に、Mr.マリックさんもまた、暗闇の中を彷徨いました。安定を捨て、覚悟を持って挑んだ先にあったのは絶望と挫折の連続。しかし無謀と思えるほどの行動力が、次の扉を開いていき、ついにあの「ハンドパワー」が生まれるのです。世間を熱狂させた「超魔術」の知られざる原点に迫ります。

湯沸かし器メーカー社員を1年もせずに退社

── 平成の「超魔術」ブームで日本中を席巻したMr.マリックさんですが、マジシャンになる前は、会社員として働いていた時期があったそうですね。

 

Mr.マリックさん:岐阜の工業高校を卒業して、瞬間湯沸かし器のメーカーに設計者として入社しました。仕事自体は嫌いではなかったのですが、毎日、黙々と図面を引いていると、「これでいいのかな」という思いが募って。もともとマジックが好きで、休日はデパートの手品売り場に1日中いたんです。ある時、実演販売の方から「このブースが空くけどやってみる?」と声をかけられて。「こんなチャンスは2度とない」と会社をやめる決意をしました。

 

ただ、せっかく学校推薦で入った会社を1年たらずで辞めるとなれば、親も当然不安がります。何より、自分の勝手で後輩たちの就職枠に悪影響が出ないかという申し訳なさがいちばんの懸念でした。でも校長先生に相談にいったら、「頑張りなさい」と背中を押してくれた。そして「実は、お前のほかに推薦で入った会社を辞めて自分の道で成功したやつがもうひとりいる。それが山本寛斎だ」と。その言葉で、踏み出す覚悟が固まったんです。

 

── 安定した人生のレールからはずれてみずから道を拓いた先駆者が、世界的デザイナーの山本寛斎さんだったとは驚きです。同じ工業高校からまったく違うジャンルのトップランナーが2人も生まれたことになりますね。

 

Mr.マリック:私は機械科、彼は土木科でした。工業高校からデザイナーとマジシャンという、いっけんするとまるで違う道へ進む人間が2人も出た。今思えば、おもしろい縁ですよね。学校推薦のレールをはずれて好きな道を選んだのは、僕と寛斎さんだけでした。彼という先駆者がいたからこそ、僕は背中を押してもらえたんです。

 

後に高校の創立70周年行事でお会いした際、寛斎さんはステージのデザインを担当されていました。そこで「寛斎さんがいたおかげで、今の私があります」と、直接お話しすることができました。

 

Mr.マリック
マジックへの情熱は今も消えない。弟子のTAKUYAさんとマジックの研究中

── 安定した会社員から手品グッズの実演販売へ。転身直後から順調だったのでしょうか。

 

Mr.マリックさん:いざ、やってみるとこれが全然売れないんです。当時は手品を楽しむ文化がなく、衝動買いに頼るしかない。でも、お客さんが「欲しい」と思うのは一瞬で、余計なひと言を言うと急に冷めてしまう。手品がうまいだけでは売れないと気づき、実演販売のプロのもとに連日通いました。そこで教わったのは、客に選ばせないこと。売るものをひとつに絞り、それだけを見せる。ノウハウを身につけるため、半年間、その方の家に住み込んで弟子入りしました。

 

売り上げが安定すると、今度はプロのマジシャンに憧れが出てきたんです。当時のプロはナイトクラブで生バンドをバックにマジックを披露していて、本当にカッコよかった。ただ、弟子入りしか道がなく、厳しい師弟関係には抵抗がありました。

 

そんな折、初代・引田天功さんの師匠・天洋先生がマジックを披露している店に会いに行く機会があり、相談をしました。すると、「天功のように一流になる気があるのか」と問われ、「好きなことで食べていきたい」と答えると「一流になる気がないならやめなさい」と、言われたんです。