父・逸見政孝さんと同じ司会業でブレイクも状況が一変し、月収はいきなりひと桁台に。どん底を経験した逸見太郎さんでしたが、求人サイトでバイトを探すなかで、人生の転機に巡り合います。53歳で異業種での挑戦を続ける逸見さんの今に迫ります。
収録が終わると酸欠状態になった情報番組
── 1993年にがんで亡くなったフリーアナウンサー、逸見政孝さんの長男であり、役者として活動していた逸見太郎さん。キャリアの転機となったのが、2009年から3年間務めた生放送の情報番組『5時に夢中!』(TOKYO MX)での司会でした。どのようなきっかけで出演が決まったのでしょうか。
逸見さん:俳優として活動していましたが、なかなか思うように仕事がなく、「何でも挑戦しなければ」という危機感がありました。そんな折、番組から声をかけていただいたんです。この番組は代々芸能人の2世がMCを担当していて、その流れで私にオファーが来ました。司会の経験はゼロでしたが、役者にこだわってチャンスを逃すわけにはいかない。勉強だと思って飛び込みました。
── マツコ・デラックスさんをはじめ、個性の強い出演陣に翻弄されながらも、懸命に番組を回されていた姿が印象的でした。
逸見さん:初年度はわけがわからず、今振り返ればひどい進行だったと思います。出演者の皆さんはお話がとにかく上手で、発信力がケタ違い。台本通りに進めようとしても、予想外の展開ばかりで、収録が終わると酸欠状態のような感じでフラフラでした(笑)。
表面的な返しをすると、すぐに鋭いツッコミが飛んできます。中村うさぎさんには「コメントが薄っぺらいんだよ」と、よく叱られましたね。あの番組には『私たちは全部さらけ出しているんだから、あなたもそうしなさいよ』という空気があって、自分をよく見せようなんて考えていたらとても通用しない。恥も弱さも全部さらけ出さないといけない世界でしたね。

── 番組特有の「洗礼」があったのですね。台本というルールに守られた世界とは違う、生のやり取りにとまどいはありませんでしたか。
逸見さん:最初は「え、この番組ってこんなに自由なの?」と驚きました。台本に守られていると思っていた自分が甘かったです。マツコさんが「ここはローカル局の放送委員会だから」とおっしゃっていて、その意味がだんだんわかってきました。インテリジェンスがないと生き残れないし、いろんな角度から物事を見なければならない。共演者が何を好むのか、どんな価値観なのか、パーソナルな部分まで予備知識として持っておかないととても進行できない。そういうことを徹底的に学びました。
放送後は毎回、プロデューサーさんと一緒に動画を見ながら反省会。「ここはこう返せたよね」と、細かく指導してくださって、それをノートに全部メモして傾向と対策を練る日々でした。
そうして生放送のライブ感に触れるうちに「自分自身をそのまま出してやっていくスタイルのほうが自分に向いているかもしれない」と感じるほど、仕事が楽しくなっていったんです。その後は、野球番組などの司会も務めさせていただき、一時は週7日、生放送の司会をしていました。忙しかったですが充実していました。