芸人・中山功太さんの母であり、60歳でピン芸人としてデビューしたアケミ・シャイニングさん。中3で「芸人になりたい」という息子の言葉に、心配のあまりボロボロ涙を流して反対したという母、還暦を迎えていったいどんな心境の変化が── 。
息子のR-1優勝の知らせで挑戦心に火がついた?

── 中山さんのお母さんは、59歳のときに吉本興業の養成所に所属し、60歳で「アケミ・シャイニング」という芸名でデビューされました。以前からお笑いに興味があったのでしょうか?
中山さん:お笑いに興味があったわけではなく、「何かに挑戦したい」と感じていたんだと思います。
うちの実家は、祖父の代から会社を経営していたため、父は仕事で忙しく、母は専業主婦として家事や子育てに専念していました。でも、母は人前で話すことや踊ることも得意としていて、フランダンスや、タヒチアンというタヒチの伝統ダンスを20年以上習い、発表会などで舞台に立つことも多かったようです。
子育てや親の介護がひと段落し、時間に余裕が生まれたタイミングで、息子の「R-1グランプリ2009」優勝の一報を聞き、挑戦心に火がついたのかもしれません。僕が優勝したことに対して、母が「うれしい反面、私は何をしているんだろうと悔しさも感じた」と言っていましたから。
── 新たな挑戦として「芸人」というジャンルを選んだのは、やはり中山さんの存在が大きかったのでしょうか。
中山さん:最初のころは「劇団に入って演技をしよう」と考えていたようです。しかし、シニア部門がある劇団の授業料が年間100万円と高額なこともあり断念。その後、「比較的安価な費用で通えて、舞台に立てる可能性がある」という条件で吉本の養成所を選んだと聞いています。
「私も吉本の養成所に入ろうと思っている」と母から聞いたときは、さすがに驚きましたけどね(笑)。中学3年生のときに僕が三者面談で「芸人になりたいから、芸能学科がある高校に行きたい」と伝えたときに、母がボロボロと涙を流して泣き出したのに、と(笑)。それでも、母の決意は固く、59歳で吉本の養成所に入所し、60歳で「アケミ・シャイニング」の芸名で活動をスタートさせました。
──「挑戦するのに年齢は関係ない」ということを感じさせてくれますね。その後の芸人活動はいかがだったのでしょうか。
中山さん:最初のころはネタ作りに苦労していて、僕から母にアドバイスすることも少なくありませんでした。その後、宮川大助・花子師匠に目をかけてもらえるようになり、ライブに出演する機会をいただくように。オーディションを受けていないにもかかわらず、舞台に立つ機会をもらえるなんて、滅多にありません。僕も、たくさんの先輩方に支えられてきましたが、母も先輩方に恵まれた芸人人生を歩んでいるなと感じています。