ピン芸人の頂点を決める「R-1グランプリ」。険しい道のりを経て、2009年度のチャンピオンに輝いた中山功太さんでしたが、優勝経験をその後の活躍に繋げられず、徐々に生活は苦しいものに。ときには、借金が1000万円までに膨らんでしまった時期もあったそうです。
突然の「コンビ解消」が苦悩の始まりだった

── 子どものころから「芸人になる」ことに憧れていた中山さんは、高校卒業後、大阪にある吉本興業の養成所に入りました。しばらくは、同じ高校出身の同級生とコンビを組んでいたそうですね。
中山さん:そうです。彼は高校時代から、ずば抜けた笑いのセンスを持っていて、本人も「卒業後は吉本の養成所に入る」と言っていたので、「それなら僕と組もう」と強引に口説き落としてコンビを組むことになりました。しかし彼は、養成所に入ったときから「4年で成果が出なければ諦める」とも言っていて…。
ネタ見せなどの授業では、高い評価をもらうこともありましたが、劇場のレギュラーメンバーになるためのオーディションに合格できない日々が続いたある日、「じゃあ今日で、お疲れさまでした」と言い残し、潔く去っていったんです。ちょうど、入所してから4年目のころでした。
── 相方の退所を引き止めなかったのですか?
中山さん:説得を試みましたが、「4年で芸人として芽が出なければ、辞めようと決めていた。安定した仕事に就いて家族を安心させたい」と決意は固く、引き止めようがありませんでした。
その後、僕はピン芸人としてネタ作りを始めたのですが、ものすごく大変で…。それまでの4年間を「コンビ」に集中していたため、「ひとり」でネタを展開するイメージすら掴めずにいました。それでも時間を惜しまず、ノートにアイデアを書き綴る日々。自宅で体を休める暇さえ惜しくて、吉本の事務所に泊まり込んで夜通しネタを考えるようになっていきました。
── 相方さん同様、中山さんにも焦りはあったかと思います。不規則な生活を続けた結果、体調を崩してしまったと伺っていますが…。
中山さん:事務所の床や階段で仮眠をとるような日々を続けていたら、首に強い痛みを徐々に感じるようになってしまいました。病院で検査をしてもらったところ、「変形性脊椎症」という診断で、すでに4番目の脊椎が削れてなくなっている状態。無理な姿勢で寝ていたり、十分に体を休められていないことが原因と言われました。
さらに、神経が集まっている部分なので、手術するにはリスクが高く、「完治は難しい」とも。それから現在まで、首の痛みと向き合いながらの生活を送っています。
── ネタ作りだけでなく、体の異変や痛みとも格闘していたのですね。苦しい時期を乗り越えて、2009年には見事「R-1グランプリ」の頂点を獲得しましたが、そのときの気持ちはいかがでしたか?
中山さん:「やっと優勝できた」というホッとした気持ちでした。ピン芸人になってから、何度か決勝戦に残ることはできていましたが、優勝を獲ることはできなくて。2009年には変形性脊椎症の痛みがひどく、「限界だ」と感じていたので、この年に優勝できていなかったら、翌年の出場は諦めていたかもしれません。
── 優勝で注目を集め、その後の仕事や私生活は一変したのではないでしょうか。
中山さん:いや、それがそうでもなかったんです。優勝したときには、すでに大阪のローカル番組でレギュラーの仕事をいくつか持たせていただいていて、翌年の春ごろまでのスケジュールが埋まっている状態でした。そのため、全国区のテレビ出演などの大きな仕事の依頼を受ける余白がなかったんです。
当時、マネージャーさんに「今、どんなオファーが来て、どのくらい断っていますか?」って聞いたら、「ショックを受けるから、聞かないほうがいいです」って言われたのを覚えています。それほどに、大きな仕事を断っていたということでした。それでも、いくつかは全国区の仕事を引き受けていました。年間で合計8本くらいでしょうか…。「R-1グランプリ」の優勝者としては、異例の少なさだったと思います。