学校は裁判所のような役割を無理やり背負っている

── 被害者のケア、また加害者の支援の前に、いじめの定義をもとにいじめを認定する必要があると思いますが、被害を受けた子どもがいじめだと訴えるのは、難しい状況が多そうです。大人たちが協力し合って、いじめを早期に発見・認定し、子どもを守る対策を取ることで、子どもも保護者も安心できると思うのですが。

 

内田教授:いじめの問題は、まず被害者がいることなので慎重に議論する必要があり、私はこれから10年、20年くらいかけて理解を広げていかなければいけないと覚悟しています。まず、「学校は被害者を守らない、自分たちに不都合なことを隠ぺいする」と、世の中での考え方が定式化してしまっていることで、状況が深刻化しているようにも感じています。もちろん、実際に隠ぺい体質をもつ学校はあります。しかし、具体的な問題解決を進めていくためには、現実に起きたことを一つひとつ地道にみていくしかない。

 

いじめが起こった場合、学校側が「実際に何が起きたのかを本当に把握していない」状況のまま、時間が過ぎていくことが多い。さらに学校は、被害者と加害者双方の仲裁機関になってしまっている。事実が把握できていないのに、周りからは双方の仲裁役を求められてしまう。教員たちがその状況に戸惑っているうちに、被害者側は「学校はきちんと対応してくれない」と不信感を募らせていく…。まずは、何が起きているのか、事実をていねいに確認していくことから始めるしかないのです。

 

── 先生たちが被害を訴えた子どもに対して「たぶんこの子は本当のことを言っているのだろう」と思ったとしても、現場を見ていないと加害者を注意することも難しいでしょうね。モヤモヤした状況のまま問題が深刻化していくのでしょうか。

 

内田教授:もちろん、教育問題では基本的に被害者の立場に立つことが大前提です。ただ、それと同時に、学校が置かれた状況をまず冷静に把握する必要があります。担任ひとりでは、事実認定の聞き取りを含めて、時間や技術などたりないものが多い。

 

内田良

子どもの虐待では、児童相談所が両極にある立場を一手に担っていることについて、昔から議論が続いてきました。つまり、一時保護など子どもを家庭から引き離す「介入」と、保護者の子育て相談に応じる「支援」という両極端な役割を、児童相談所が背負うことになる。保護者からすれば、無理やりわが子と引き離されたあと、同じ職員に子育ての相談をしようとしても混乱するし、納得できないですよね。保護者との適度な距離感が図れないことが解決に時間を要する要因にもなっているため、「介入」と「支援」の機能を分けた担当制にして、職員はどちらかひとつに専念できるようにするべきという議論が盛んに行われています。

 

一方で、学校は、担任ひとりに「介入」と「支援」2つの役割を同時に求められ、いじめかどうか事実を捜査・認定し、被害者あるいは加害者とされる子ども双方の主張に耳を傾けながら、そのどちらが正しいのかを決めるという、まるで警察や弁護士、裁判所のような仕事を担わざるを得なくなっています。この事実を、世の中の大人たちが認識し、考える必要があると思います。

 

私は、もし万が一、学校で抱えた問題が大きくなってきた場合には、被害者と加害者に対して、複数の教員あるいは専門家が別々に対応するなど新しい体制づくりが必要だと思っています。そもそも、学級という単位が存在している以上、学級担任は学級が円滑に運営できるようにまとめていく必要があります。一方で、同じ教室や学年に被害者と加害者、両極の立場の生徒がいるのですから、難しいに決まっています。ともすれば、加害者の親が「うちの子はやっていない。やられたと言っている」と反論してくる場合もある。学校がこういった深刻な問題を一手に担っている状況が、解決を困難にしているのではないかと思うのです。