小児病棟の付き添い家族を助けるために、2014年にNPO法人キープ・ママ・スマイリングを設立した光原ゆきさん。設立の背景には、ご自身の子どもたちの入院をはじめ、壮絶な体験の数々がありました。(全2回中の1回)
20代で卵巣がんと弟の死を経験「命の有限さ」に直面
── 光原さんは子どもの入院に付き添う親の環境改善を目指す活動をされています。もともとはリクルートで約20年サラリーマンとしてご活躍されていたそうですね。
光原さん:当時、朝から夜まで一日中働いていました。私がリクルートに入社したのは1996年で、日本のインターネット元年といわれる1995年の翌年。最初は、紙媒体からネット媒体へのシフトを進める部署に配属されました。最先端の環境で、働くことの楽しさを知り、がむしゃらに働く日々でした。
そんな毎日を過ごしていた29歳のときに卵巣がんになりました。高熱が下がらない日が続いたんです。お腹も腫れてきて、病院で検査をすると、レントゲンに入りきらないぐらいに卵巣が腫れていて。緊急手術をした結果、がんの進行は初期だったこともあり、片方の卵巣はさいわい残すことができましたが、抗がん剤が効かないタイプのがんで。「もし再発すると命の危険があるだろう」と思いました。
29歳で卵巣がんというのもまさかという気持ちでしたし、それをきっかけに突如、命と向き合わなければならなくなりました。
── それはショックですね…。
光原さん:実は同じ時期に、弟を亡くしました。弟は、とても繊細で、とても優しい子でした。パソコンが得意な子だったので、もし生きていたらうちのNPOのシステム担当になって活動を助けてくれていたと思います。私たち、きょうだいの仲もよかったんです。
でも、当時は家族みんなが私のがんのことで気持ちがいっぱいで、弟の心の病状が悪化していることに気づいてあげられなかった。 残された家族は、罪悪感と無力感でいっぱいですよね。もっともっとできることがあったんじゃないか、助けることができたんじゃないか。この後悔は、20年経った今も消えることはありません。
「付き添い入院」の過酷さを知った娘の入院
── 失意のなかリクルートに復帰され、2人のお子さんを授かります。このときの経験がNPO法人キープ・ママ・スマイリングの設立につながったそうですね。
光原さん:そうです。35歳のときに長女、39歳のときに次女を出産。NPOは2014年11月、私が40歳のときに設立しました。今年でちょうど10周年に当たります。設立から5年間は会社員と二足の草鞋を履いた生活で、2018年の終わりに会社員を辞めてNPOに専念しました。
NPO設立のきっかけは、2人の娘の入院時につき添った自分の経験からです。長女は生まれてすぐに「様子がおかしい」と、救急車でNICUのある大学病院に運ばれました。検査の結果、先天性の疾患が判明し、生後5日目に長時間にわたる手術を受けました。
長女がNICUから一般病棟に移ったときに、看護師さんから「お母さんがつき添ってください」と言われました。そこで初めて、子どもの入院に親が付き添う「付き添い入院」が当たり前、という小児病棟の暗黙のルールを知りました。長女は、半年ほどで退院し、元気になって保育園にも通うことができるように。私は仕事に復帰しました。
その4年後に授かった次女は、妊娠検査で重い病気があることがわかりました。出産後すぐに手術をし、京都の病院に転院するなど、さまざまな病院で入退院を繰り返しました。そのたびに、私が付き添い入院をしました。
──「付き添い入院」は、どのような環境だったのでしょうか。
光原さん:病院によって異なりますが、私が付き添い入院をした病院では、親は看護師さんたちに代わって、検査に連れて行ったり、薬を飲ませたり、おむつ替えごとに排泄量を記録したり…といった作業に追われました。
それでも、親に対しては何の支援もありません。緊張感を抱え24時間心の休まらない環境の中で、子ども用の小さなベッドで一緒に寝るか、寝返りのできない簡易ベッドで寝る状態でした。そのせいで、腰痛を悪化させて、ひどい睡眠不足になりました。病院食を出してくださるわけでもないので、少しの合間をみつけてコンビニに走る毎日で、野菜不足の日々が続きました。周りのお母さんたちも同じで、倒れるお母さんたちもたくさんいました。
一方で、小児病棟の人手不足は明らかでした。点滴の交換や鳴りやまないナースコールなど、休みなくバタバタと走り回る看護師さんたちを前に、親である自分がつらいとは言えませんでしたね。
愛しい子どもの成長と次女が生まれてくれた意味
──「付き添い入院」がそのような過酷な環境だとは知りませんでした。
光原さん:想像以上に大変でした。でも、付き添い入院で子どものそばにいられたこと自体は、とても幸せなことだったと思います。
ある日、小さなベッドの中で次女と一緒に寝ている夜中、次女が寝返りの練習をしていました。点滴の管につながれた小さな身体で、何度も、何度も、一生懸命に。そして、初めて寝返りができた瞬間の誇らしげな表情が、かわいくて、かわいくて…。
次女は、1歳になる直前、生後11か月のときに突然亡くなりました。もし付き添うことができなかったら、私は彼女の懸命に生きる姿を側で見守ることができなかった。子どもの成長をそばで見届けたいという願いは、多くの親が当たり前に抱くものだと思います。そして、親にそばにいて成長を見守ってもらうことは、子どもの権利でもあります。親が健康に笑顔で付き添える、そんな付き添い環境が闘病中の子どもたちにとっても重要なんです。
──付き添い入院自体が「悪」なのではなく、環境の過酷さが課題なのですね。
光原さん:次女を亡くした直後、私は生きる意味を見失っていました。正直、長女がいなければ、今ここに私がいたかはわかりません。次女が亡くなってから、長女の存在、そして同じように子どもを亡くしたママ友たちに支えてもらうなかで「次女が生まれてきてくれた意味」について考えるようになりました。
そして、あまりにも過酷な付き添い入院の環境を、今も小児病棟で孤独に苦しむお母さんたちや子どもたちのために改善していくことが、次女が私に教えてくれたことであり、私に残された使命なのではないかと考えました。「次女がいたから世の中がよくなった」と喜んでくれる人がいたら、それが彼女が私のところに生まれてきてくれた意味になると思いました。そんな思いで立ち上げたのが、キープ・ママ・スマイリングです。