現在は地元で、美容ドリンクの会社を経営する小島可奈子さん。グラビアアイドルや女優として活躍していた彼女が芸能界から身を引き、経営者になろうと思ったきっかけとは。(全3回中の3回)

「こんなことが続くなら離婚する!」と父が

小島可奈子さん
小島可奈子さん

── 芸能界で働こうと思ったきっかけはなんでしょうか?

 

小島さん:地元の福岡で19歳のときに、グラビアアイドルをやらないかとスカウトされたことです。高校生のときからルーティーンのような生活が苦手で、卒業後も福岡ドームのコンパニオンなどの仕事をしていたので、芸能界で働くのもおもしろそうだなと。ただ、当時はグラビアというジャンルが今ほど浸透していない時代で、父親からはものすごく反対されました。でもそれを振りきって、わずかな貯金と段ボール2個だけで上京したんです。

 

── お仕事はすぐに軌道にのりましたか?

 

小島さん:それが誘ってくれた新設予定の事務所が結局立ち上がらず、事務所に入れなかったんです。窓口となってくれていたマネージャーはいて、グラビアの写真集を出すことは決まっていたので、とりあえずその撮影を行いました。すると、そこからどんどんグラビアの仕事が来るようになって、雑誌、テレビと順調に仕事がもらえるようになったんです。

 

当時はアイドル冬の時代と言われていたころで、その代わりにちょうどグラビアアイドルが注目され始めた時期。雑誌のグラビアなどで人気が出ると、テレビのバラエティ番組に呼ばれるという流れができ始めていて、そのころには所属する事務所も決まっていました。

 

── 反対されていたお父さんの反応はいかがでしたか?

 

小島さん:週刊誌に私の水着姿のグラビアが掲載されたときは、なぜか母に怒りの矛先が向かって「こんなことが続くなら離婚する!」とカンカンになって怒ったそうです。そのことを電話で母から聞いたときには、東京での生活に慣れない寂しさもあり、道の真ん中で大泣きしてしまいました。

 

でもそこから私がテレビに出るようになったら、父の態度が一変。私が実家に戻ると、写真集を持った父は私をいきつけの喫茶店に連れていき、周りの人たちに自慢するようになったんです。テレビ出演をきっかけに、私の仕事を認めてくれたようでした。

恋が覚めるように仕事への熱も冷めた

小島可奈子さん
貴重なウエディングショット

── グラビア、バラエティ番組、その後もお芝居と順調にキャリアを積み重ねていましたね。

 

小島さん:芸能生活を送るなかで、私にはふたつの感情があって。ひとつは「苦しみながらも表現という仕事に喜びを感じる自分」、もうひとつは「かわいいお嫁さんになりたい自分」でした。最初のころはグラビアで水着撮影をすることに抵抗がありましたが、表現する喜びを感じることができ、グラビアはもちろんバラエティ、お芝居なども楽しくお仕事できていたのだと思います。

 

ただ、私の場合、特に下積み時代もなく、なにかを目指してレッスンをしていたわけではありませんでした。バラエティ番組も呼ばれたオーディションに合格して出演が決まり、立ち位置やキャラクターなどを考えていたわけではなく、勢いで出演しただけ。お芝居の仕事も声がかかって主演をやることになっても演技が下手で、今考えると申し訳なかったと思っています。20代は自己肯定感の低さが強く、もがき苦しみながら仕事をこなしていましたね。

 

── 2011年に芸能界を離れたのも、そのようなことがきっかけですか?

 

小島さん:34歳のときに2時間ドラマに出演したのですが、そこで浴衣姿で橋から落とされて死ぬシーンを撮影したんです。そのときに急に「あっ、私が芸能界でやりたいことは終わったな」と。そのときの私は表現の仕事に対する情熱よりも普通のお嫁さんになりたいという感情が強くなっていると気づき、まるで恋心が急に覚めるように芸能界への熱も冷め、先延ばしにしていた結婚を決心しました。

 

そのようなときに、2011年3月の東日本大震災が起こり、ちょうど潮時だったのかそれを機に今まで途切れなかった仕事がパタリとなくなりました。当時つき合っていた夫と結婚して、「普通のお嫁さんになる」というもうひとつの夢を叶えることにしたんです。

 

── そこからすぐに会社を立ち上げたのですか?

 

小島さん:しばらくは妊活をしていたのですが、なかなか恵まれませんでした。その後、地元である福岡に移り住むことを夫と決めたのですが、福岡で暮らし始めてすぐに自然妊娠しました。

 

それからはしばらく専業主婦をしていましたが、仕事が好きなので心理学やカウンセリングの勉強などをしていました。2016年に美容ドリンクのモデルをしてもらえないかと声がかかり、その流れでその会社「And you.株式会社」の代表取締役となりました。