大分から18歳で上京し、乃木坂46のメンバーとしてアイドルへの道を進んだ衛藤美彩さん。「自信に満ちていた」と語る当時の衛藤さんを支えていたのはお母さんの存在でした。(全5回中の2回)

「4年間はなんとしても」大学に出す気持ちで上京を許可

── 衛藤さんが芸能界の道に進んだきっかけを教えてください。

 

衛藤さん:中学ではバレー部に入ったんですけど、「インターハイに行くぞ!」っていうほどのモチベーションもなくて、高校でもバレー部に入るか悩んでいたんです。そんなときに、たまたま兄の友人から「(地元・大分の)フリーペーパーのモデルをしませんか?」と誘われて「なんだか楽しそう!」と思ったのがきっかけです。その後、「お母さん出ていい?」と母にお願いして許可をもらい、そこから活動が始まりました。

 

中学ではバレーボール部だった衛藤さん(前列一番左)

そのフリーペーパーでは6人くらいの子が活動していました。それぞれが大分のテレビに出てレポーターをしたり、6人でイベントに出たりとタレントみたいなことをやっていました。それが15歳頃ですね。その雑誌で人気が出たので、インディーズで歌手デビューしようとなり、曲を出してローカルアイドルとして成長していきました。「地域に密着したマルチタレント」のような感じでいろいろなことを経験させてもらいました。

 

転機が来たのはその曲を出した後です。当時のソニーミュージックの方がその歌を聞いて「東京で本格的に芸能活動やりませんか?」とスカウトしてくださいました。それで高校卒業のタイミングで、上京することになったんです。 

 

── 昔から芸能界への憧れなどはあったのですか?

 

衛藤さん:実は、特に憧れが強くあったわけではないんです。でも歌は好きで、地元の親せきや近所の人に「美彩ちゃんは歌がうまいから芸能人になれるよ」と言われて育ったので、どこか歌への興味はあったかもしれません。アイドルになれると想像もしていませんでしたが、つくづく導かれるようにご縁をいただいたなと思います。

 

── ご家族は衛藤さんがひとりで大分を離れて芸能活動を始めることに対して、どのような様子でしたか?

 

衛藤さん:「挑戦してみたら?」と、快く送り出してくれました。両親も18歳の子をひとり大都会の東京に送り出すのは抵抗があったと思います。でも母は「本人がやりたいことはやらせてあげたい」という考えで応援してくれました。ただ、やはり約束事として、やるからには決めた期間は頑張りなさいと。ちょうど同級生たちは大学に進学する年だったので、「お母さんも美彩を大学にやったような気持ちで送り出すから、4年間は頑張ってみなさい。その後については4年後に考えよう」と。今振り返ると、愛情ある送り出しをしてもらったなと思います。

 

── 素敵なお母さんですね。衛藤さんもそのときは愛のあるエールを受け「成功してやるんだ」というような気持ちで上京されたのでしょうか。

 

衛藤さん:それが、母との約束を重たく感じること全然なく。「東京、楽しみだなぁ…」と、とても楽観的な気持ちで上京しました。「帰る場所もあるし」とのんきに考えて、自信に満ちていましたね。私はすごくのびのびとした、自己肯定感爆上がりな環境で育ててもらったので、「何でもできる!」という気持ちしかありませんでしたから。