京子スペクターさんが、デーブ・スペクターさんと出会ったのは、ロサンゼルスのホテルに勤務していた時。二人がおつき合いをするようになったきっかけや、結婚後に来日した経緯について伺いました。(全4回中の2回)
デートの誘いを断り続けること約10回「もう断る理由が思いつかない…」
── デーブさんと出会ったのはいつ頃でしたか?
京子さん:ロサンゼルスのホテルニューオータニに勤務して2年目の後半ごろでした。彼はゲストとしてホテルに滞在していたのですが、あまりにも流暢な日本語を話すので、「日系のハーフの方かな?」と。「アメリカ人です」と自己紹介されてはいたものの、「ユウゾウ」と名乗っていたこともあり、半信半疑の状態。ずっと後になって免許証を見せてもらったら「ユウゾウ」の文字はどこにもなくて(笑)。そこで初めて「本当にアメリカ人だったんだ」と真実が明らかになったんです。
── 当時からジョークがお好きだったのですね。
京子さん:そうなんです。その時の私にとって、デーブは「怪しい人」でした。たどたどしい日本語を話すならまだ可愛げがありましたけれど、とにかく日本語が上手すぎましたからね。
── その後、デーブさんから猛アタックされたそうですが…?
京子さん:デートを申し込まれたのですが、なにしろ彼のことを「怪しい」と思っていたくらいだったのでお断りしました。でも、その後、何度もデートに誘われて。「友達の引っ越しを手伝わなければいけないから行けない」など、理由を探しては断り続けてきました。でも10回もすぎるともう言い訳のネタが尽きてしまって…(笑)。
年末年始に一時帰国する時期が迫ってきていたので、「私は日本に帰るから、一回だけデートしましょう」と伝え、「これで終わり」のつもりでデートをすることにしたんです。初めてのデートでは、デーブが大きな高級車で迎えにきてくれて、ご飯をご馳走してくれ、帰る間際にトランクから取り出した黄色いバラを1本、プレゼントしてくれました。
── 素敵なデートでしたね…!その後、どのようにおつき合いが始まったのでしょうか?
京子さん:つき合い始めるのは、さらに1年くらい後のことです。私が一時帰国から戻ったのが、アメリカの感謝祭の頃。感謝祭は家族が集まるお祭りで、現地に家族を持たない私は「寂しいな、誰かを誘おうかな」と考えていて。そこで思い浮かんだのがデーブでした。
彼に電話をすると「友人と一緒にいるから、君もおいで」と呼んでくれて、3人で食事をすることに。この頃から「この人、いいかも」と感じるようになっていったんです。
レストランではいつも安いものをオーダー。その理由は…
── デーブさんのどのようなところに惹かれていったのでしょうか。
京子さん:誠実なところです。当時、高額な給料をもらっていたわけではないのに、常に私にいいものを食べさせようとしてくれました。レストランに食事に行っても、私にいいものを注文し、自分は安いメニューをオーダーするんです。「どうして同じものを食べないの?」と聞いたところ、彼は「その料理は嫌いなんだ」と返答。しかし、おつき合いをスタートさせてから、同じメニューを食べている彼の姿を見て「嫌いなわけではなかったんだ」と理解しました。
ほかにも、自分の買い物はしないのに、私へのプレゼントを買うことはしょっちゅうで。そんな献身的な姿を見ているうちに、心が惹かれていきました。
── デーブさんからの愛情が伝わってきますね。当時「結婚相手」に求める条件はありましたか?
京子さん:結婚する人に求める条件は、「日本語がうまいこと」と「日本文化を理解してくれること」でした。たとえば、納豆などの日本食に対して、「くさい」と敬遠する人は一緒に生活していてストレスになるはず。そういう面でも、デーブは寛容でしたし、「日本の文化を理解したい」という意思が伝わってくる人でした。
現在、結婚して40年以上が経ちますが、彼の姿勢は変わりません。彼はいつも「私がハッピーで楽しく過ごしてほしい」と話し、誕生日やクリスマスなどのプレゼントも欠かしません。私が雑誌を見て「これ素敵ね」と言っていたものを覚えていて、記念日に買ってきてくれたり。そういう思いやりや気づかいがとても嬉しいです。
結婚後は「多忙な夫を手伝いたい」とアシスタント業務もこなす
── 1981年に結婚されて以降、生活はどのように変わりましたか?
京子さん:結婚を機に、夫の仕事のお手伝いをするようになりました。当時、夫はアメリカの三大ネットワーク「ABCテレビ」のエグゼクティブプロデューサーとして働いていました。テレビ制作は情報収集や下調べが欠かせません。特にアメリカの番組は、訴訟に発展することもあり、誤った発言や情報の発信にとても厳しいのです。夫はもともと勉強熱心な性格から、寝る時間を割いてでも徹底的に下調べを行っており、「少しでも手伝うことができれば」という思いで、リサーチを手伝うようになりました。
── 結婚して2年後の1983年には来日し、日本で働くようになったそうですが、きっかけについて教えてください。
京子さん:ABCテレビのロケで来日したのがきっかけでした。ゴールデンタイムの番組制作で、予算も十分にあったので、制作チームを引き連れて東京を拠点にアジア各国への取材を行っていました。取材が終わり、アメリカに帰国する予定だったのですが、日本語に詳しい夫に「日本の番組をチェックして、アメリカの番組で使えそうな映像を買いつけてきてほしい」というオーダーが入りました。
そこで、夫はABCと提携していたNHKに何日も入り浸り、各番組をチェック。その後も、アメリカ人に受けそうなものを録画して、アメリカへ送る仕事をするようになったんです。その後、しばらくは日本とアメリカを往復する生活が続きましたが、日本のテレビ番組への出演や講演の依頼も増え、徐々に日本で活動する時間が増えていきました。
PROFILE 京子スペクターさん
(株)スペクター・コミュニケーションズ代表取締役。千葉県千葉市出身。高校卒業後、ハワイとアメリカに留学し、語学を学ぶ。1977年よりロサンゼルスのホテルニューオータニに勤務。コンシェルジュとして働くなかで、デーブ・スペクターと出会う。結婚後、日本に帰国し(株)スペクター・コミュニケーションズを設立。テレビの企画やプロデュースを手掛けるほか、アメリカでの生活を生かして、ライフスタイルコーディネーターとしても活躍する。現在アルバニア共和国名誉領事を務める。2023年より始めたInstagramが(@kyoko_spector)が好評。
取材・文/佐藤有香 画像提供/京子スペクター