引退したとき、「もうバレーは見ない」「メダルも押入れに」と、日本代表のエースでもあった益子直美さんは、バレーボールを遠ざけます。そんなに嫌いだったバレーをなぜ、続けていたのか。胸の内を明かしてくれました。(全5回中の5回)

バレーで生きてきた人生「でも、ずっと嫌いだった」

── 元アスリートの方にお話を伺うと、皆さんたいてい競技愛を熱く語られます。厳しい世界で戦い抜き、培ってきたものがあるから、自己肯定感も高い。現役時代に活躍した益子さんが、引退後「バレーボールが嫌いだった」と告白されたときは、正直、驚きました。

 

益子さん:バレーが楽しかったのは、中学校で始めた最初のころだけ。その後はずっと怒られ、ぶたれる日々が続き、私にとってバレーボールは恐怖でしかありませんでした。ですから、引退を迎えた日はうれしかったし、ホッとしました。その後は、バレーなんて見たくもないと、サインボールなどの記念品も押入れの奥にしまい込んでいました。

 

うちは、夫(自転車ロードレーサーの山本雅道さん)も元アスリートですが、トロフィーやチャンピオンジャージなどを大切そうに飾っているんですね。

 

彼はいまでも自転車を心から愛していて、よく乗っているし、同じアスリートでも、私とは正反対。いったい何が違うのだろうと思っていたのですが、選手時代に受けた「指導」がまったく異なっていたんです。

 

── どんな違いだったのですか?

 

益子さん:彼は21歳でプロデビューし、ヨーロッパで活動していたので、「褒めて伸ばす」指導を受けてきているんですね。ヨーロッパでは練習でも、ただ自転車に乗るだけで「いいね!」と肯定され、褒められる。私が受けてきたスパルタ指導とはまったく違っていました。

 

怒鳴られ、ぶたれ、否定され続けてきた私は、競技に対してネガティブな気持ちしか持てない。自信もないし、自己肯定感も育たない。指導の仕方で、こんなに違うものなんだと痛感しましたね。

 

── 告白されたのは、引退してからずいぶん経ってからでした。なにかきっかけがあったのでしょうか?

 

益子さん:50歳を過ぎるまでは、「バレーボールが嫌い」と人前で言えませんでした。元バレーボール選手として解説や講演などの仕事もしていましたし、子どもたちもキラキラとした目でみつめてくる。ダマしているようで心苦しい気持ちもありました。

 

自分をさらけだし、弱さを認められるようになったのは、2017年、50歳で不整脈の一種である心房細動がみつかって手術をし、これまでの人生を振り返ったことがきっかけです。入院中、病院のベッドでいろんなことを考えました。どうすれば、大好きで始めたバレーを嫌いにならずにすんだのだろう。振り返るうちに、自己嫌悪と罪悪感の日々が蘇りました。

怒る指導を自分がしてしまい「心臓がドキドキして…」

── 自己嫌悪というのは…?

 

益子さん:2015年から淑徳大学でバレー部の監督を務めていたのですが、当時、チームが急激に強くなって、6部リーグから3部まで上がることができたんです。そうなると、他チームのレベルもこれまでと違う。焦りやプレッシャーから、いつのまにか勝利至上主義になっていた私が、勝つために使った方法が「怒り」でした。

 

あれほど選手時代に嫌ってきた「怒る指導」を、今度は自分がしてしまった。自己嫌悪に陥り、ずっと罪悪感を抱えていました。大学のある千葉に行くために、車でアクアラインを渡るだけで、心臓がドキドキするようになり、パニック障害のような症状が起こるように。そうしたストレスが積み重なって、病気につながっていったのだと思います。

 

怒る指導に葛藤し生まれた「怒らない大会」の様子

── それほど嫌っていた「怒る指導」をしてしまったのは、なぜだったのでしょう。

 

益子さん:勝つための成功体験をそれしか知らなかったんです。選手時代の経験だけでは、指導力に限界がきてしまいました。

 

それに、手っ取り早かったんです。緩んでいた空気が一瞬でピリッとするし、短期で結果が出ますから。でも、それが自分を苦しめる原因になった。正しい「指導」の方法を学ばないといけないと、心底、反省しました。

 

── その後、どんなことを学ばれていったのですか?

 

益子さん:まずは、スポーツメンタルコーチングの学校に通いました。自分のメンタルが弱いから、心臓が悲鳴をあげてしまった。だから、心を強くしたいなと思ったんです。コーチングや心理学、発育や発達など、いろいろと学び、アンガーマネジメントや、短い激励のメッセージであるペップトークなども勉強しました。

 

学びを深めるうちに、いろんなことが具体化され、長年の苦しみが解決し、弱い自分をさらけ出すことが怖くなくなりました。振り返ると学び始める前の自分は、本当に中身がなかった気がします。選手時代の知名度を使って、なんとか仕事が途切れないようにと、ありとあらゆるものにチャレンジして。でも、軸になるものが自分の中になかったので、つねに自信がなく不安でした。

バレーは嫌いなのに「コートが唯一の居場所」だった

── 学びによって、益子さんのなかで何が一番変わりましたか?

 

益子さん:「心・技・体」で土台になってくる「心」部分がすごく成長して大きくなったなと感じます。それまでは技術と体はそこそこあっても、「心」がやせ細っていて、グラグラとした状態でした。学びによって、心身のバランスが調い、自信が持てるようになりました。

 

── 不思議なのは、「大嫌いだった」というバレーボールをやめなかったことです。

 

益子さん: 私自身もずっと気になっていたのですが、自分の過去をたどる心理ワークをした結果、過去の忘れられないできごとがトラウマになっていたとわかりました。

 

── どんなできごとだったのですか?

 

益子さん:小学校3年生のときでした。席替えをすることになり、先生の声掛けにより、学級委員の子から順番に好きな子を指名するという方法で席を決めていったんですね。自分はいつ呼ばれるのかなと思っていたら、なんと最後の1人になってしまって。こんなに独りぼっちだとは思わなかったし、自分は指名されない存在なのかと、ものすごくショックでした。

 

学校には、私の居場所なんてないんだ、誰からも必要とされていないのかなと、疎外感で落ち込みました。そのできごとがあまりに衝撃的で、ずっと忘れられずにいたんです。その後、バレーボールを始めて、自分が必要とされる場所が見つかって。だから、どれだけ怒られ、殴られても、この場所を手放すわけにはいかなかったんですね。

 

── 子どものころのトラウマが原因だったと。

 

益子さん:ここがなくなったら、居場所がどこにもなくなってしまう。あのときに戻りたくないという恐怖感がありました。自分の存在が認められる場所があることで、救われた部分もあります。そういう意味では、バレーボールに感謝しています。

 

PROFILE 益子直美さん

ますこ・なおみ。1966年、東京都出身。中学入学と同時にバレーボールを始め、共栄学園高校3年の時にバレーボール日本代表に入り、その後、世界選手権などに出場。1992年に現役引退後、タレントやスポーツキャスター、指導者として活動。2015年から「監督が怒ってはいけない大会」を主催。2021年に日本バレーボール協会理事に就任。2023年、女性初のスポーツ少年団本部長に就任。

 

取材・文/西尾英子 画像提供/株式会社サイン