身長、体重、容姿。コンプレックスから逃れることは難しいものです。でも、それが長所となることもあります。小学生で160センチあった少女は、バレーボール界に見出され、日本のエースへと成長。歩んできた道のりを、益子直美さんが明かします。(全5回中の2回)

あだ名は「ガリバー」「電柱」からかわれるのがつらかった

── 中学入学と同時にバレーボールを始めるまでは、背が高いことがコンプレックスだったそうですね。

 

益子さん:幼稚園のころから背が高くて、小学校高学年では、すでに160センチを超えていました。周りからは、「恐竜」「ガリバー」「色つき電柱」なんてあだ名で呼ばれて。

 

下町なので、電柱にチラシがいっぱい貼ってあったんです。休み時間に私が歩くと、ネス湖のネッシーをもじって「益子のまっしーが出た〜!」と言われたり。それがすごく嫌で、休み時間になると、体を小さく丸めて、目立たないように過ごしていました。

 

いま思えば、いじめというよりも、単にからかわれていただけだと思うのですが、まだ子どもだった私には、心ない言葉がズキズキと胸に刺さりました。

 

── バレーを始めてすぐに才能が開花したのですか?

 

益子さん:自分では才能があるなんて思いませんでしたが、入部したてのころ、監督が母に向かって、「娘さんは順調に行けば、日の丸を背負いますよ」と言ったんです。

 

まだ球拾いしかしていなかったので、母は「何を言っているんだろう」とまったく信じていませんでしたけれど。

 

監督はバレーボールの経験がなかった方でしたが、たまたま顧問になり、熱心に研究されていました。指導は厳しく、毎日怒られてばかり。ミスをすれば、罵声がとんできて、容赦なくぶたれるので、いつもビクビクしていました。とはいえ、当時はスパルタ指導が当たり前の時代でしたから、そういうものなんだと思っていました。

 

── 中学3年生のときには、全日本ジュニアに選抜されました。

 

益子さん:関東大会にも勝ち進んだことのないチームだったのですが、なぜか選ばれて。でも、それをきっかけに一度バレーをやめているんです。

「弱音を吐いていい」と気づかされた母親との会話

── なにがあったのですか?

 

益子さん:合宿では、自分より背が高い人がたくさんいて、難しいプレーを難なくこなすようなすごい選手ばかり。そんな姿を目の当たりにして、「同い年なのに、こんな人たちがいるんだ」と圧倒されてしまったんです。自分に自信もなく、「こんなところでとてもやっていけない」と感じてしまって。合宿から戻るとすぐに、『バレーボールはもうやめます』と監督に伝えました。

 

── かなり引き止められたのでは?

 

益子さん:それが、すんなりOKだったんです。後から聞いたところ、「絶対戻ってくると思っていたから」と。

 

その後、受験勉強を始めたのですが、もともと勉強は好きではなく、教科書を家に持って帰ったこともなかったタイプ。ですから、「どうやら勉強より、バレーのセンスがありそうだな」と気づきまして(笑)。それに、いったんバレーから離れたことで、「やっぱりバレーボールがやりたいな」とも思い始めていました。

 

そんなころ、友人に誘われて行ったバレーボールのワールドカップの試合で、憧れだった選手に握手してもらい、バレーへの思いが再燃。高校からもスカウトをいただいていたので、バレーボールをするために共栄学園に進学しました。

 

いま思えば、あのとき、周りから強く引き止められていたら、「絶対やめてやる!」と、かえって意地になって、きっと戻れなかったと思うんです。

 

苦しいときに支えてくれた家族との思い出の一枚

母に告げるときも、「自分から始めたことなのに、途中でやめるなんて根性がない!」と怒られると思っていました。でも、母は「やめたいなら、やめていいよ」と味方になってくれたんですね。そのひと言で、「母には弱音を吐いてもいいんだな」と安心でき、気持ちが楽になりました。おかげで、もう一度バレーをやりたいと思ったときも、素直に戻ることができたんです。

 

── 逃げ道を残しておいてくれたのですね。

 

益子さん:感謝しています。ですからいま、親御さんに「子どもがやめたいと言う」と相談されたら、「スポーツを真剣にやっていると、相談できる人がいなくなって孤独になることがあります。だから、せめてお母さんだけは味方になってあげてくださいね」と伝えています。

バックアタック誕生秘話「まさか自主練からこんな技が」

── 1984年の春高バレーでは、当時、見たことのないジャンピングサーブとバックアタックというミラクルなプレーを披露し、一躍、注目されました。

 

益子さん:ジャンプ力だけはあって、当時で85センチぐらい飛んでいました。じつはジャンピングサーブは、何げなくやっていた自主練から生まれたものでした。

 

ある日、セッターがお休みだったので、コートの真ん中から自分でトスをあげ、スパイクを打っていたんです。それを見たコーチが、「もうちょっと後ろからアタックラインを踏まないように打ってみろ」と。

 

やってみたらできたので、「次はもうちょっと後ろから」「次はもっと下がってコートの外からエンドライン踏まずに打って」と、どんどん要求が上がって。成功したら、「よし、明日からそのサーブで行け」と言われました。

 

── まさかの「やってみたらできた」パターンだったとは。

 

益子さん:いまやジャンピングサーブといえば、片手でボールを回転させて上げながら、打ちますよね?でも、当時は女子で誰もやっていなかったので、なにが正解なのかわからない。だから、両手でトスを上げて打っていたのですが、いま思えば、なんともイモっぽいというか、カッコ悪かった(笑)。

 

練習では成功率が低かったのですが、春高バレーの準決勝で大林素子さんがいた強豪の八王子実践との試合で、ジャンピングサーブとバックアタックが次々と決まったんですよ。3本連続でサービスエースも決まりました。

 

── 成功率の低かった技が本番で炸裂するとは、まるで漫画のような展開ですね。

 

益子さん:ただ、プレッシャーもすごかったです。試合中、ベンチから監督が「益子に全部あげろ!」と叫んでいて。そんなことされたら、相手チームからマークされるじゃないですか(笑)。でも、ここで私が決めないと勝てないし、また、怒られてぶたれる恐怖もあって、「ムリムリ!こっちにトスあげないで!」と思いながら必死で闘いました。

 

── 高校3年生で日本代表のメンバー入り。卒業後は、イトーヨーカードのバレー部に入団し、90年にはエースとして強豪の日立を破り、日本リーグ優勝に貢献されました。全日本代表としても活躍され、バレー界を盛り上げました。

 

益子さん:ただ、私自身は、闘争心がなく、チャレンジをしない選手でした。怒られるバレーしか経験してこなかったので、張りきって新しいことにチャレンジし、ミスをしてぶたれることだけは避けたいと思っていました。だから、できるだけ目立たないように、無難にやりすごすのが癖になっていたんです。

 

高校時代まで、監督の顔色を見ながら、怒られないよう、言われたことをただこなしてきたので、実業団に入って「自主性を持ってバレーを楽しむ」ことを求められても、どうすればいいかわからず、とまどいました。

 

苦しかったですね。結局、バレーを楽しむことができないまま、現役を引退。その後、長くバレーボールから遠ざかる日々を過ごしました。

 

PROFILE 益子直美さん

ますこ・なおみ。1966年、東京都出身。中学入学と同時にバレーボールを始め、共栄学園高校3年の時にバレーボール日本代表に入り、その後、世界選手権などに出場。1992年に現役引退後、タレントやスポーツキャスター、指導者として活動。2015年から「監督が怒ってはいけない大会」を主催。2021年に日本バレーボール協会理事に就任。2023年、女性初のスポーツ少年団本部長に就任。

 

取材・文/西尾英子 画像提供/株式会社サイン