小さいころから両親は「厳しい指導者」だったと話す小湊美和さん。そのおかげで人間力が磨かれたと振り返ります。昭和の香り漂うアイドル誕生のはじめの一歩をたどります。(全4回中の1回)

 

12歳でこの貫禄!民謡大会で最優秀賞をとったときの歌唱シーン

我が家は民謡一家「生きていくためのすべだった」

── もともとご実家が、民謡の家元だそうですね。

 

小湊さん:祖父母の代からの民謡一家です。私はよく「民謡屋さんちの子です」と言っています(笑)。当時は、お弟子さんもたくさんいて、家のなかで民謡が聴こえているのが当たり前の環境で育ちました。

 

両親からは、「我が家にとって民謡はなにより大切で特別なもの、それで生きているおうちなんだよと」と叩き込まれていたので、習い事という甘い感覚はなく、生きていくための術(すべ)でした。

 

家業なので、家族であるからには民謡をやるのが当たり前で、「できない子は何の権利もない」と言われていたので、『反抗する』『やらない』の選択肢はありませんでした。

 

── 稽古は、厳しかったですか?

 

小湊さん:超スパルタでしたね。親子といっても師弟関係のようなものですから、逆らうことは許されません。師匠が白と言えば白、黒と言えば黒。当時の師匠と弟子というのは、そういう関係性だったと思います。

 

おそらく最後の昭和世代の芸事育ちでしょうね。民謡のお稽古場にいても、私は教えてもらう立場ではなかったので。

 

小湊さんが2歳2か月ころの様子

私が稽古場で向かい合って稽古をつけてもらえるのは、舞台の出演予定があるときくらい。基本的には『見て、聴いて、真似て、学ぶ』でした。

 

小学生のころは子どもを集めたお稽古に参加していたので教わっていた感覚でしたが、中学生以降は、大人のお弟子さんのお稽古場について行って、指導する両親の横に並んで、母が弾く三味線を横目で見て覚えるしかありません。

 

ただ、横からだと指の動きがよく見えないので、手の動きの感覚と音を頼りに、何度も繰り返すことで覚えていきました。

 

そのほかに、個人的に教えてもらえるのは、稽古場に移動する車のなか。そこでも、「ハイ、歌って!」「違う、もう1回!」の繰り返し。何が違うのか、自分で考えなさいと。自分ではできていると思っても、「よくできた!」と言われることはなく、毎回、泣きながらやっていましたね。

両親が甘やかさずに育ててくれたことに感謝している

── 甘えたい時期もあったと思いますが、寂しさを感じたり、不満をぶつけたりということはなかったのでしょうか?

 

小湊さん:それが当たり前だと思っていたので、疑問を持つ余地すらありませんでした。祖父母と同居して親代わりに面倒を見てもらっていたので、甘える相手はおじいちゃん、おばあちゃん。お弟子さんたちもすごく可愛がってくれました。

 

いま考えると、甘やかしてくれる人の数はたくさんいたので、逆に、両親は厳しくしつける役割しか残っていなかったんじゃないかなと思うんです。

 

若くして結婚し、両親ともまだ30歳くらいでしたし、しかも祖父母が早く引退したので、一家を食べさせるために必死でした。そんな姿を間近で見てきたので、わがままを言う気にはならなかったですね。

 

それに、あの厳しい環境で育てられたからこそ、へこたれないメンタルが養われ、いまの私がいるんだと思っています。むしろ、あれでよかったと感謝していますね。

『ASAYAN』応募締め切り前日「受けたい」と両親に告げ

── その後はどんな道のりを?

 

小湊さん:両親から「別の師匠の内弟子になって修行をしてこい」と言われたのですが、民謡では住み込みで弟子入りできる師匠がみつからず、結局、日本舞踊の先生の内弟子になりました。

 

親元を離れ、日舞を習いながら行儀見習いをして1年半たったころ、民謡のローカル番組のアシスタントのお話をもらい、民謡歌手の卵として活動を始め、そこからは名指しでお仕事をいただけるように。NHKのお正月番組に出たり、民謡界のアイドル的な扱いで活動をしたりしていましたね。

 

19歳のころにはNHKの民謡番組に出演

── 21歳でオーディション番組『ASAYAN』(テレビ東京)に参加されました。きっかけは、なんだったのでしょうか。

 

小湊さん:当時、東京藝術大学で尺八を学ぶために上京していた弟が、たまたま番組を見てオーディションのことを知り、教えてくれたんです。

 

応募条件は、芸能活動をしたことがある人。「プロデューサーのつんく♂さんが、『これまでにアイドルや演歌歌手、民謡やっている人とか…』と言っていたから、姉貴もあてはまっているんじゃない?」と。

 

当時、『ASAYAN』は見ていたけれど、私の住む地域でのオンエアは数週遅れで、そのオーディションの告知をテレビで確認したときには、すでに締め切りが翌日でした。そこで、両親に「明日が締め切りなんだけど、応募してもいい?」と聞きました。

 

── 御両親としては、民謡の家を継いでもらいたい気持ちがあったのではと思うのですが、どんな反応でしたか?

 

小湊さん:それが、あっさりOKでした。もともと父はエレキギターが趣味で、昔は津軽三味線を交えたポップスの曲で、ヤマハからメジャーデビューをして、活動をしていた時期があったんです。

 

母も民謡歌手としてテレビに出るなどタレント活動をしていたことがあったので、私が上京して芸能活動をすることに抵抗がなく、「いいんじゃない、チャンスだからやってみれば?頑張っておいで」と、2つ返事で賛成してくれました。

 

私は17歳で結婚して、当時、1歳と3歳になる子どもがいましたが、「自分たちがこの子たちを育てるから大丈夫。民謡は、この先またやるべき時がきたらやればいい」と送り出してくれました。

 

いま思えば、両親からすれば、私は自分たちが手塩にかけて育てた「作品」。その民謡歌手が、どこまでできるのか腕試し、という感覚もあったんじゃないでしょうか。

 

PROFILE 小湊美和さん

こみなと・みわ。1977年生まれ、福島県出身。民謡小湊流家元の長女として生まれ、幼いころから民謡の舞台に立つ。1998年、オーディション番組『ASAYAN』(テレビ東京)で行われた「つんく♂プロデュース芸能人新ユニットオーディション」に合格。99年に『太陽とシスコムーン』の一員としてデビュー。2000年に解散後は、ソロとして活動している。

 

取材・文/西尾英子 画像提供/小湊美和(つんく♂さん、太陽とシスコムーンメンバー、ハロプロメンバーの写真は小湊美和さんのSNSより引用)