「あなたが何をしても、尾崎豊がしたように言われる」。物心ついたときから、尾崎裕哉さんが母からよく聞かされた言葉です。幼少期をアメリカで過ごしたなかで、ある思いが生まれたと言います。(全3回中の1回)

 

父である尾崎豊さんに肩車される裕哉さんの貴重な親子ショット など

「父の記憶はないけれど」5歳で母とアメリカへ移住

── 1992年、父・豊さんが亡くなりましたが、お父さんについて覚えていることはありますか?

 

尾崎さん:父は僕が2歳のときに亡くなったので、直接的な記憶はありません。5歳で母とアメリカのボストンに移ったので、気がついたらアメリカにいた、って感じです。

 

── 渡米の理由は、豊さんの死をめぐってのマスコミやファンからのバッシングだったそうですね。自宅前でファンがまちぶせ。電話が朝から晩まで鳴りやまないばかりか、カミソリ入りの手紙も届き、近所の電柱に母親の繁美さんが名指しで「死ね」と書かれるなど壮絶なものだったと、繁美さん自身が語っています。アメリカにはすぐになじめましたか?

 

尾崎さん:ボストンには日本人が多く、コミュニティがしっかりしていました。母が住むエリアについてかなり考えてくれたようです。公立学校に入り、黒人の子とケンカしたこともありましたが、「日本人」だからと、嫌な思いをすることはありませんでした。

 

全寮制の学生時代(10歳)は紺ブレザーにネクタイが制服

── 知らない土地での子育てでお母さんは大変だったと思いますが、裕哉さんはどんなことを大事にしていましたか?

 

尾崎さん:母は『勉強しなさい』とあまり言わないけれど、他人に対する気づかいやマナーについては厳しい人でした。他人に対して使えるものは、気持ち以外もしっかり使いなさいと。お金ならチャリティなどがありますし、時間も、頭も、心ならおもてなしとか。ちょっとした格言をもちいて心がまえを教えてくれました。

 

アメリカ的な紳士の教育だと思いますが、レディファーストにはじまり、公共の場所での振る舞いなども徹底していました。母自身が人づきあいで学んだことや、母の考える理想の男性像などの話も多かった気がします。

 

── 他人への接し方に気をつけていたのは、「尾崎豊の息子」という点を意識されていたのでしょうか?

 

尾崎さん:それは大きいですね。僕が尾崎豊の息子という事実は、ずっとつきまといます。『あなたがどんな行動をとっても、尾崎豊がやったように言われる』と、物心ついたころから母によく言われました。

異なる家族や文化に触れられた経験は貴重でした

── アメリカではお母さんとふたりで暮らしていましたが、どんな日々でしたか?

 

尾崎さん:母とふたりというより、たくさんの人たちに育ててもらった感覚です。母は父の作品関連の仕事で年2〜3回は帰国。そのたびに、僕だけ現地の日本人宅に2週間ほど泊めてもらいました。

 

もちろん、日本に帰れば、祖父母宅に泊まることはありましたが、アメリカで家族ではない他人の家庭に入って、話しあったり、その家のルールや文化に触れたりするのは、幼い僕には大切な経験でした。

 

拡張家族やホストファミリーのような感覚でしょうか。いまでもアメリカに戻ったら、当時お世話になった方々がいます。幼いときにつちかった関係が続いているのは財産だと思います。

 

── 心温まる関係ですね。そのなかでもお母さんが裕哉さんのことで力をいれていたのは?

 

尾崎さん:母自身は、親が子どもにしてあげられるのは環境を整えることくらいだと考えていたようです。そこで、しばらく公立校に通ったあと、小学5年生から全寮制の学校に入りました。

 

かなりの労力をかけてこれだと思った学校を探したそうです。実際、言葉がわからない異国で学校をリサーチして、つてを頼って入学につながる活動をするのはなかなかできることではありません。

同級生も「親を背負っている」ことを知った夜

── 全寮制の男子校とは厳しそうですね。どのような校風なのでしょうか?

 

尾崎さん:『自立した人間を育てる』のが第一でした。起きたらネクタイ締めて、授業は必ず紺ブレザー。ロビン・ウィリアムス主演の『今を生きる』という映画がありますが、あのままです。

 

── 自立した人間を育てるとは、たとえばどんなところから?

 

尾崎さん:自分でベッドメーキングするなど、身のまわりのことを自分でできるようにするのが学校の方針でした。それから周囲に対しての奉仕。食事はカフェテリアなんですが、8人ほどのテーブルでウェイターの当番がありました。

 

当番になると早めに休み時間をきりあげて、ナプキンにフォーク・ナイフ・スプーンをセッティング。ウォーターピッチャーをおいて、お皿も並べる。食事が始まったら、厨房に走りこんでトレーに載せて給仕して、なくなったら自分が食べるのを中断して、また厨房にとりにいく。それが1週間続きました。

 

思春期に寝食をともにする友人たちが一緒にいてくれたのはありがたかったですね。いまも関係は続いていますし、現在の自分に大きな影響をおよぼしています。

 

ライブのリハーサル中の尾崎さん

── 貴重な友人たちですね。そこでの気づきや学びはありましたか?

 

尾崎さん:いろんな国籍や背景を持つ人たちから多くを学びました。入学してくる子たちは、だいたい親が厳しくて、自分の生まれた家や家族に対する責任をある程度自覚している感じです。

 

大企業の跡取り息子などもいて、彼らを見ていると背負うものの大きさという点において、良い意味でいちミュージシャンの息子なんて小さいことだと考えられるようになりました。僕には「尾崎豊の息子」という事実がずっとついてまわりますが、それを少し柔軟に受け止められるきっかけになりました。

 

PROFILE 尾崎裕哉さん

1989年東京都生まれ。父はシンガーソングライターの尾崎豊。5歳からの10年間をアメリカのボストンで過ごす。慶應義塾大学大学院卒。2016年、TBSテレビ系「音楽の日」で初のテレビ生出演、『始まりの街』でメジャーデビュー。2023年10月からは、全国11か所を巡る弾き語りワンマンツアー「ONE MAN STAND 2023 AUTUMN」スタート。

 

取材・文/岡本聡子 写真提供/株式会社ソニー・ミュージックレーベルズ