東京五輪のサーフィン競技でみごと銀メダルを獲得した五十嵐カノア選手。その活躍を陰で支えるのが、母・ミサさんです。飛び級するほど優秀だったカノアさんをどうサポートしたのか、またアメリカ在住ながら日本代表として五輪に参加した舞台裏もお聞きしました。
家族が集まるのは年に数日「予定が合う日は必ず食事を共に」
── カノアさんはSNSでよく家族写真をアップしていて、心から家族を大切にしていることが伝わってきます。母親として、家族の絆を深めるために意識していることはありますか?
ミサさん:わが家は、カノアも次男のキアヌも国内外を飛び回っていることが多く、みんなで一緒に過ごせる時間が限られています。ですから、家族が揃っているときは、できるだけ一緒に食事をとるのが暗黙のルール。家族4人の予定が書き込めるカレンダーを使い、それぞれの予定を記入。家族が見られる場所に飾ってスケジュールを共有し、予定を合わせられるときは予定を合わせて一緒に過ごします。
── 家族だんらんの時間は、どんな雰囲気なのですか?
ミサさん:うちは、子どもたちも夫も、とにかくよくしゃべるんです。日々の出来事だったり、旅先での笑い話だったり。しょっちゅうみんなでゲラゲラ笑っています。しかも声が大きいので、ものすごく賑やか(笑)。
家で過ごす時間は、子どもたちにとって楽しくリラックスできるものにしたいので、サーフィンの大会の話は振らず、できるだけ気楽で笑えるような会話をしたくて。いつもサーフィンのことばかり考えていますから、あえて違う話題づくりを心がけています。寝るとき以外は、たいていリビングで一緒にいますね。
教育ママとして厳しく接した理由は
── カノアさんは、サーフィンだけでなく学業も優秀で、高校では飛び級もされています。サーフィンと学業の両立は大変だったと思うのですが、どんなふうにサポートされていたのでしょう?
ミサさん:当時は気づいてなかったのですが、今、振り返ると、私はかなりの教育ママだったかも。「スポーツだけでなく、勉強も一番だともっと価値があるよ」と、常日ごろから伝えていました。カノアとは「勉強をきちんとしたうえでサーフィンをしようね」と、子どものころから約束していたのですが、彼はそれを忠実に守ってくれました。早くいろんな国へ行ってサーフィンしたいがゆえに勉強を頑張っていたようで、中学校でも飛び級し、15歳のときには、高校の単位をすべて取得しています。
── ミサさんが、そこまで教育に力を入れてきたのは、なぜですか?
ミサさん:昔は「勉強は普通にできればいいかな」なんて思っていたんです。でも、アメリカでは年齢が上がってから大学に行く人も多い。ですから、いずれ彼が、大学で学びたいと思ったときに、ある程度以上の学力があれば、もっと選択肢が広がるだろうと思ったんです。学校も、学力次第でどんどん先のカリキュラムに進めるところを選んで、努力することを苦にせず当たり前にできる習慣を学ばせました。
今思うと、つい口うるさく言ってしまったこともあったかもしれません。ものすごい量の課題に無我夢中で取り組んでいるのをみて、「無理をさせすぎているかな」と思ったことも。でも彼自身、つねに学びつづける姿勢をもっていて、今は大学に行くことも検討しているみたい。「もっと良い自分になるために、向上心を持って一生勉強しようね」と、伝えています。
勉強がツラそうな息子を見て「自分も一緒にやろう」と決めた
──「学ぶ楽しさ」を知ることは、人生の宝物になりますね。
ミサさん:最初は勉強が好きじゃなかったみたいで、毎日しかめっ面をしながらノートに向かっていたんです。そんな姿を見ていると、こちらもツラいじゃないですか。「もう少し楽しんで勉強できる方法はないのかな。私ができることはなんだろう…」と考えた結果、「そうだ、私も一緒にやればいいんだ!」という答えに至りました。
親である私が「学ぶ楽しさ」を理解してこそ、子どもに伝えられる。そんな私を見て、子どもも勉強するのが楽しくなればいいなと。そこからは、子どもの横でああでもないこうでもないと言いながら、一緒に勉強するようになりました。数学も因数分解から勉強し直したんです。
── 親が自分と同じ立場で苦労を分かち合ってくれるのは心強いですし、良い刺激になりそうです。
ミサさん:勉強だけに限らず、水泳やスケートボードなど、スポーツも一緒にやりました(笑)。「もっと早く泳げるようになるにはどうしたら?」「スケートボードでジャンプできるようになるには、どんなふうに体を使えばいいのかな」と、ふたりで本や映像などを見ながら、研究したりもしました。
── スポーツまで!?いろいろなことにチャレンジするミサさんのバイタリティがすごいです。
ミサさん:今になって思うのは、子育てって本当に正解がなくて、人それぞれでいいんだなということ。環境も違えば、子どもの性格だって違う。いっぱい悩んで、失敗して、試行錯誤しながら、「自分たちに合ったやり方」をみつけていくものなんだと実感しています。
── そんなカノアさんにも、反抗期はありましたか?
ミサさん:カノアに関しては、それほどなかった気がします。ただ、意志が強い子なので、親の言葉にまったく耳を貸さず、「とりあえず全部自分の思う通りにやってみる」というスタイルを貫いていた時期もありました。
親としては、「そのやり方を選ぶと遠回りだし、失敗するよね…」という場面に遭遇すると、つい口を出したくなるもの。できれば子どもに苦労はさせたくないですし。でも、道を整備しすぎるのは、かえって子どものためにはならない。あえて口を出さずに、失敗するのを見届けることも、親の大事な役割だと思って、見守りに徹しました。
── なぜそう思われたのでしょう?
ミサさん:私自身、失敗からたくさんのことを学んできたからです。移住して、周りには頼れる人も相談相手もいなかったので、ひとりで試行錯誤しながら、たくさん失敗を積み重ねてきました。でも、振り返ると、うまくいったときよりも、実際に失敗をして痛い目にあったときのほうが気づきも大きく、人間として成長できた気がします。
「親は思わず迷ったけれど」日本代表にこだわった理由
── 21年の東京オリンピックでは、日本代表として出場されました。それまでアメリカで数々の実績を残してきたカノアさんが、日本の代表を選んだのはなぜだったのでしょうか?
ミサさん:そもそもオリンピックだから日本代表を選んだわけではなく、サーフィンがオリンピック種目に選ばれる数年前に、「転戦しているワールドチャンピオンシップツアーでの表記をアメリカから日本にしたい」とカノアから言われたんです。その後、2年間ほど話し合って日本表記を承諾し、以後のコンテストでは日本表記になっています。その半年ほど後に、サーフィンがオリンピック種目の候補に挙げられました。日本表記にするということは、私たちにとって「挑戦する」という意味合いがあったんです。
最初に「日本代表として出場したい」と言われたときは、私も夫もビックリしました。もちろん彼は日本人ですし、幼少期から日本の素晴らしさを折に触れて教えてきたものの、国籍にはとらわれず、国際人として育ててきたので、彼が日本人としてのアイディンティティを強く持っていたことに驚いたんですね。
「日本でも、野球やサッカーのように、メジャーなスポーツとしてサーフィンが認識されるように力を尽くしたい。そのためには、壁を破る必要があるし、自分がその第一人者になる」。それがカノアが日本代表にこだわった理由でした。わざわざそんな大変な道を選ばなくても…と思い、最初は「ちょっと考えたほうがいい」と伝えたんです。
── 苦労が目に見えているからでしょうか?
ミサさん:もちろんそれもありますが、9歳くらいからアメリカチームの一員として迎えてもらい、スポンサーにもお世話になってきたし、周りのメンバーからも仲間と認識されてきました。それなのに、ワールドツアーやオリンピックで日本の旗を振るとなると、どう思われるんだろう…そういった心配もありました。
それは本人にも伝えたのですが、時間が経っても意思はまったく変わらなくて。最後は私たちが根負けしたという感じでした。この子は本当に、自分の言ったことに責任と覚悟をもっているんだなと実感したので、それなら親として全力で応援しようと。
── 実際に、反発の声はあったのですか?
ミサさん:周りの仲間は、彼の気持ちを尊重して応援してくれました。アメリカチームもスポンサーも、カノアが自分自身で思いを伝え、承諾を得て、応援してもらうことができました。
ただ、一部の一般の方からは反発する声がありましたね。でも、「やっぱりあったか~」と当の本人はけろっとしていて。アメリカ人として必要とされていたんだと実感したようで、むしろ喜んでいたんです。「そういう考え方もあるんだな。私たちも強くならなくちゃ」と考えさせられました。
カノアは日頃から、“自分がなりたいものになれる”と子どもたちにメッセージを送っていて、それが自分の使命だと考えています。そんな彼を今後も全力で応援していくつもりです。
PROFILE 五十嵐ミサさん
1963年生まれ。東京出身。2021年東京オリンピックのサーフィン競技日本代表・銀メダリスト五十嵐カノア選手の母。高校生の時にサーフィンに出会い、トレーニングのために始めたエアロビクスにも魅了。20歳から4年間の海外留学を経験。1990年に結婚し、95年に夫婦でアメリカに移住。弟のキアヌさんもプロサーファー。日々の出来事やカノアさん、キアヌさんの活躍を定期的にインスタグラム(@misa_igarashi)で発信中。
取材・文/西尾英子 写真提供/五十嵐ミサ