東京五輪のサーフィン競技でみごと銀メダルを獲得した五十嵐カノア選手。その活躍を陰で支えるのが、母・ミサさんです。「思い立ったら即行動」で人生を切り開いてきたというミサさん。いったいどんな子育てをしてきたのでしょうか。

 

プロサーファーの五十嵐カノア・キアヌ兄弟
息子たちはともにプロサーファーとして活躍。左が兄のカノアさん、右が弟のキアヌさん

息子の意志の強さは母親譲り?強行突破で海外に出た母

── 五十嵐選手の「カノア」というお名前は、ハワイの言葉だそうですね。

 

ミサさん:ハワイ語で「自由」という意味があります。もともと私たち夫婦もサーファーなので、サーフィン発祥の地で受け入れてもらえるように、という思いをこめました。
ハワイはサーファーにとっての聖地で、ハワイの波を乗りこなせないと一人前のサーファーとして認めてもらえないといわれているほど。ちなみに、弟の「キアヌ」もハワイの言葉からつけた名前で「山からの清々しい風」という意味があります。

 

── まさに、名前の通りになりましたね。ミサさん自身も、若いころにフィットネスの勉強とサーフィンのために4年間、海外留学されていたそうですね。

 

ミサさん:20歳から4年間、オーストラリアとロサンゼルスに留学しました。もともと高校生のときに、姉の影響でサーフィンを始めたのですが、体力づくりやパドリングでの可動域を広げるため、エアロビクスにトライしたらすごく楽しくて、すっかりハマってしまったんです。

 

そこで、フィットネスの本場である海外でエアロビクスを学びながら大好きなサーフィンもしたいと思い、父親に留学の相談をしました。そのときは「海外は危ないからダメ」と反対されてしまったのですが、どうしても諦めきれなくて。バイトをかけもちしながら留学資金を貯め、出発直前になってから親に報告しました。両親は驚いていましたが、「そこまで根性があるんだったら行ってこい」と送り出してくれたんです。

 

最初の2年はオーストラリアで過ごし、その後、ロサンゼルスに渡ってフィットネスのインストラクターの勉強に打ちこみました。毎日のようにサーフィンもしていましたね。

 

帰国後、日本でインストラクター養成学校に通っていた時に夫に出会い、27歳で結婚しました。

 

プロサーファー・五十嵐カノアさんの両親、ミサさんと勉さん
結婚33年。夫の勉さんは「おおらかを絵に描いたような人」だそう

── パワフルですね。カノアさんの行動力と意志の強さは、お母様譲りでしょうか。

 

ミサさん:どうでしょう(笑)。ただ「これがやりたい!」と思ったら行動せずにはいられないところは似ているかもしれませんね。

 

── 元々「海外に住んで子育てしたい」という思いがあったそうですね。なぜそうした思いをもつようになったのでしょう?

 

ミサさん:海外で子どもを育てたいという気持ちは、子どものころからずっとあったんです。両親が飲食の会社を経営していて忙しかったので、放課後の時間を埋めるために、塾やピアノ、書道、そろばん、水泳など、たくさん習い事をしていたんですね。そのなかで、いちばん好きだったのが英会話で。将来は、外国で暮らしてみたい、自分の子どもと英語で話せたら楽しいだろうなという思いがずっとありました。

 

── 1995年に夫婦でアメリカに移住されました。移住は2人で決めたのですか?

 

ミサさん:いえ、私が一方的に(笑)。結婚して5年、そろそろ子どもがほしいと思っていました。30代前半だったので、移住して子どもを育てることを考えると、「行くなら今しかないな」と。でも夫は、知らない国で家族を養っていける確信がもてず、渋っていたんです。そこで、自分が先にフィットネスのインストラクターを辞め、夫に「私は仕事を辞めてきたから、次はあなたの番だよ!」と海外移住を迫りました(笑)。

 

── まさかの強行突破だったのですね(笑)。

 

ミサさん:そうでしたね。仕事のあてがあったわけでもなく、知り合いもいないというまったくのノープランでしたが、「ダメだったら日本に戻ればいい。とりあえず飛びこんでみよう」くらいの気持ちでした。

 

渡米後は、フィットネスがさかんなハリウッドで、フィットネスウエアを中心としたファッションの会社を起ち上げました。運よく半年で永住権が取れ、子どもを生み育てる環境が整ったので、子どもをもうけることに。その後、カノアを授かりました。

3歳の誕生日に8万円のサーフボードをねだられて

── 移住後は、苦労された時期もあったそうですね。

 

ミサさん:留学経験はあるものの、フィットネスとサーフィン三昧で、あまり熱心に英語の勉強をしていなかったので、移住後は語学の壁にぶつかって。銀行開設の手続きひとつにしてもなかなかスムーズにいかず、苦労しました。

 

ただ、なかば強引に夫を連れてきて彼の人生を変えてしまったという責任を感じていたので、「分からない」「できない」なんて甘えたことは言っていられません。無我夢中で体当たりの日々。失敗もたくさんしましたね。

 

すでにサーファーとして頭角をあらわしていた12歳ころの五十嵐カノアさん
すでにサーファーとして頭角をあらわしていた12歳ころのカノアさん

── カノアさんがサーフィンデビューしたのは、3歳のときだそうですね。どういったきっかけだったのでしょうか?

 

ミサさん:結婚記念日とカノアの3歳の誕生日を兼ね、ハワイへ旅行に行ったときのことです。「誕生日プレゼントに何が欲しい?」と聞いたら「サーフボードが欲しい!」と即答して。元々、幼少のころから主人がサーフィンをしているのを見て「自分も海に入る!」と大騒ぎして引き留めるのが大変なくらい、サーフィンには興味をもっていたんです。

 

そこで、ショップに行って選ばせたら、指さしたのは8万円のボード。当時の私たちにとってはかなりの高額だったので、違うものに目を向けさせようとしたのですが、「絶対これがいい!毎日やるから」と懇願されて…。根負けして購入し、そのまま海に連れて行ったら、なんと自分でパドリングして、アラモアナの波に乗ったんです。

 

── 3歳でそれはすごいですね! ボードから立ち上がるだけでも大変ですよね?

 

ミサさん:私たちもビックリしました。私なんて立ち上がるのに半年かかりましたから。水が顔にかかっても、楽しそうにケラケラ笑っているのを見て、「ああ、この子はものすごくバランスがいいんだな。サーフィンに向いている。もしかしたら、サーファーとしていけるかもしれないぞ」と、ピンとくるものがありました。

 

そこから毎日サーフィンをするようになったんです。「どうせやるなら、有名なサーファーになってもらいたい」という期待もあって、できる限りのサポートをしてきたつもりです。

 

PROFILE 五十嵐ミサさん

1963年生まれ。東京出身。2021年東京オリンピックのサーフィン競技日本代表・銀メダリスト五十嵐カノア選手の母。高校生の時にサーフィンに出会い、トレーニングのために始めたエアロビクスにも魅了。20歳から4年間の海外留学を経験。1990年に結婚し、95年に夫婦でアメリカに移住。弟のキアヌさんもプロサーファー。日々の出来事やカノアさん、キアヌさんの活躍を定期的にインスタグラム(@misa_igarashi)で発信中。

 

取材・文/西尾英子 写真提供/五十嵐ミサ