1977年にアナウンサーとしてTBSに入社した吉川美代子さん。その後、TBS初の女性キャスターに抜擢されていきますが、円形脱毛症と神経性胃炎に苦しんだ時期もあったと言います。(全4回中の2回)
突然ラジオのデスクに呼ばれて…
── 当時、TBSでは9年ぶりの女性アナウンサー採用だったそうですが、実際に働いてみていかがでしたか?
吉川さん:放送局は開かれた世界だと思っていたんですが、当時はやっぱり男性社会でしたね。
── 男性社会だなと感じたエピソードはありますか?
吉川さん:これは入社3か月目くらいで、研修期間に終わりが見え始めた8月でした。1年先輩の男性アナウンサーが「研修後に皆で食事をしよう」って提案してくれて、ラジオ局の若手記者も含めて、8人くらいで居酒屋に行ったんです。そしたら、ラジオ局の若手が「吉川さんは何がやりたいの?」と言うので「報道番組のアナウンサーになりたいです!」って答えたらすごく喜んでくれて。その日は、選挙のときは、ラジオのリポーターをやってもらおう、って盛り上がったんですよ。
翌日の研修が始まり、昼休みになったら、ラジオニュースのデスクから呼び出しが。ラジオ局のニュースデスクのオジサマを訪ねると、いきなり「女のくせにお前は生意気なんだよ!」って怒鳴られたんです。
── いきなりですか?
吉川さん:はい、いきなり、そのデスクは「お前、昨日うちの若手に報道やりたいって言ったんだって。女のくせに報道がわかるわけないだろ、100年早いんだよ!」って鬼のような説教をされて…。私は意味が分からず、萎縮して何もしゃべれないままでした。そして「帰れっ!」ってラジオニュースの部屋を追い出されたんです。アナウンス部に戻ったら、私の顔が真っ青だったんでしょうね、先輩の男性社員が「大丈夫、気にするな」って慰めてくれました。すべての人が偏見をもっているわけではないんでしょうが、やっぱり男性社会なんだなってそのときに思いましたね。
俺の原稿は女に読ませないで
── 衝撃的ですね。今の時代なら、確実に問題になる発言ですね。
吉川さん:こういうエピソードならいくらでもありますよ。ほかには、入社5年目のとき、当時の民放では初めての朝の大型ニュース番組『JNNおはようニュース&スポーツ』を担当することになり、念願の報道番組でTBSでは初の女性ニュースキャスターとなりました。
でも、現場は大変でした。ニュース番組では、記者が書いた原稿を最終的に番組の編集長がチェックして直します。長すぎる原稿を時間内に収まるようにカットしたりもします。ある朝、若手の男性記者が「俺の書いた原稿は女に読ませないで」と編集長に言ったんです。私もそこにいるんですよ!もちろん、編集長はそんなことは気にしないんですけど、私はプレッシャーを感じますよね。
── なぜ、プレッシャーを?
吉川さん:もし、そこまで言われて、万が一読み間違えたら「やっぱり女はダメだ!」って言われるじゃないですか。そういう意味で、尋常じゃないプレッシャーでしたね。実は当時は、神経性胃炎になったり、円形脱毛症にもなったんです。
── 身体にまで影響が出ていたんですね。それは辛い…。
吉川さん:でも、そんな私のストレスや悩みをちゃんと見ていてくれる先輩もいました。報道アナウンサーのある男性が「今は女性が報道することに7割が反対しているかもしれないけど、君が頑張ったら半年後に5割になり、1年後には逆転しているから」って励ましてくれたんです。でも、この言葉でますます責任重大とプレッシャーを感じました。だって、私が失敗したら、女性アナウンサーに報道は無理、となるからです。とにかく仕事を頑張りました。
── ストレスは何で発散していたんですか?
吉川さん:ストレス発散は仕事。仕事自体は好きなことなのでどんどんやりたかったんです。当時は、土日も自分で動いてネタを探していましたからね。仕事は大変でしたが、頑張った分だけかえってくるのはわかっていたので。疲れはしたけど、夢のような人生。むしろ、やりたいことなのに「女だから」って理由でチャンスをもらえないのが嫌だったんですね。女性に対する偏見は確かにある世界でしたが、その一方で、認めてくれる人はすぐに認めてくれる。実力社会でもあるので、結果を残せばどんどんチャンスはもらえました。
PROFILE 吉川美代子さん
1954年生まれ。1977年にTBS入社し、以後37年間アナウンサーとして活躍。TBSアナウンススクール校長を12年間務めた。2014年に定年退職するも、その後も精力的に活動中。
取材・文/佐々木翔