女子カーリングブームの火付け役となった「ロコ・ソラーレ」。本橋麻里さんはチーム立ち上げの理由を「終活を意識した」と話します。お話を伺いました。(全3回中の1回)

陸上少女だった幼少期

── カーリングを始めるきっかけを教えてください。

 

本橋さん:最初に触れたのは小学校の授業でした。地元の常呂町では4年生から、冬の体育の授業でカーリングとスピードスケートをするんです。

 

本橋麻里さん
本格的にカーリングに打ち込んでいた15歳の頃の本橋さん。フレッシュな笑顔は現在も変わらず

── 小学校で習うとは驚きです。

 

本橋さん:町に専用のリンクがあるので、他の地域の方からすると特別な環境だと思います。地元の方に親しんでほしいということで授業の一環として取り入れたそうです。体育の時間にリンクに行って、学校の先生やリンクの指導員の方に教えていただきました。

 

── そこから、本格的にカーリングを始めようと思ったのはなぜでしょう。

 

本橋さん:常呂カーリング協会の会長をつとめていた小栗コーチに「練習したら上手くなるよ」と言われたのがきっかけです。そこで調子に乗ってスタートしました(笑)。思い立ったら即行動タイプなので、お誘いを受けた次の日から練習を始めました。小栗コーチが、私の両親に「娘さんにカーリングをさせたい」と行ってうちに来てくださったのを覚えていますね。

 

── すでに才能が開花していたんですね。

 

本橋さん:才能じゃないとは思うんですが、「足腰が強いのを運動会で見た」というのをあとから聞きました。それまで陸上少年団に入っていたので、どちらかというと真っ黒に日焼けをして外で走ったり幅跳びをしたりしていたんです。カーリングは中学校に入るタイミングで本格的に始めました。

 

── カーリングにはどんな能力が必要なのでしょう。

 

本橋さん:基礎体力はベースになると思います。2時間半から3時間かかる種目なので、まずは体力があることが前提で、その次にスキル。最初の1年はあまりストーンを触らせてもらえなくて、デリバリーフォームという、氷の上をスーッと滑る練習ばかりしていました。

 

あとは頭脳戦でもあるので、あまり小さい頃からではなく、小学校の高学年や中学生くらいから始めると飲み込みが早いと思います。ストーンの重さも20キロくらいあるので、それを操れるようになってからでも遅くないです。それまでは外でたくさん遊んで、他のスポーツをしてもらったら。専用の施設がある地域が偏りがちなのですが、競技寿命も長いですし。

 

本橋麻里さん
本橋さんが3歳の頃の貴重な1枚。大きなお口を開けて首を傾げる決めポーズが可愛らしい

── 本格的に競技をするようになった当時の気持ちを覚えていますか。

 

本橋さん:ひたすら楽しかった記憶があります。コーチは、壮大な目標ではなく頑張ったらクリアできそうな目標をひとりひとりの能力を見て掲げてくれていました。練習もゲーム感覚ですね。クリアしたら次はこっち、と常に目標を見せてくれていましたし、何より褒め上手だったと思います。両親以外の大人から褒められるのは嬉しかったですし、自己肯定感が高まったと思います。

 

もちろん厳しいこともありました。でもそれは挨拶やマナーなど、人として大切なことで。カーリングの前にすることをしてから、という指導でした。カーリングさえできればいいというものではなかったのも、子どもながらに腑に落ちていました。

 

── 続けていくなかでの苦悩はありましたか。

 

本橋さん:最初は楽しい!だけでしたが、だんだんと勝てない悔しさや、チームスポーツなので人間関係も影響してきて。ティーンエイジャーの集まりなので、ジュニアの頃はチームで何かと揉めました(笑)。でも卒業や進学の節目で、自分の進路について一緒に悩んで考えてくれる人が身近にいたのはありがたかったですね。

 

── これまでに辞めようと思ったことはありますか。

 

本橋さん:4回くらいあります(笑)。

 

── 結構ありますね(笑)。

 

本橋さん:勝てばみんなが喜んでくれるものだと思っていても、もちろんライバルは違いますよね。勝ち続けることも楽じゃないですし、嫌がらせを受けることもあって、ひるんでしまったこともありました。嫌な思いをするくらいなら、しないほうがいいんじゃないかって。

 

でも小栗コーチが、そういった負の力に負けず、自分の目標を決めて邁進していくことに舵をきってくれたので続けてこられました。3回くらいそんなことがありましたね。

 

あとは最初のオリンピックに19歳で出たあとです。コーチと約束していたオリンピックという目標が達成したときに「次、何しよう…」って。今思うと、バーンアウト、燃え尽き症候群だったのかなと思います。

 

── そこで辞めなかったのはなぜでしょう。

 

本橋さん:内容を考えたときに、自分のなかで薄っぺらかったなと思ったんです。達成できたことより、できなかったことのほうが多かったので続ける選択をして今に至ります。それ以降は辞めたいと思ったことはありません。

ロコ・ソラーレ誕生の理由

── 2010年に地元に戻って女子カーリングチーム、ロコ・ソラーレを立ち上げました。当時の思いを教えてください。

 

本橋さん:競技の終活について考えたことがあったんです。いつか来るその日に、どこで辞めたいんだろうと思ったら、生まれ育ったふるさとで辞めたいなって。それが私のカーリング人生のゴールだなと。辞めるなら地元で辞めたいというのが発足の理由です。

 

ロコ・ソラーレ
ロコ・ソラーレ発足当時のチームメンバーの初々しい写真。右から2番目が本橋さん

── まさか立ち上げの話で終活の話が出るとは!

 

本橋さん:地元を出て、改めてふるさとのよさに気づきましたし、それと同時にこのままじゃいけないということにも気づけました。青森で活動させてもらっていた19歳、20歳くらいのときに地元をどうしたらいいのかとずっと考えていました。待っているだけではなく、自分たちで進化していかなきゃならないというのは青森の皆さんを見て感じましたね。

 

当時、カーリングはアマチュアスポーツの部類だったので、盛り上げるには郷土愛とか、地元をより良くしようという思いが大事なんじゃないかって。青森の方々がしていることに影響を受けましたし、見習わなくちゃと思いました。

 

当時、地元に残ってカーリングをしたいと言ったら、アルバイトをしながら競技を続けるくらいしか選択肢がありませんでした。でもそれでは生活基盤が安定しないので辞めていく人が多かったんです。ある程度、人が育ったら他の地域に託さなければならないことが悔しかった。このままではいけない、地元でカーリングを続ける環境をつくることを真剣に考えなくてはならないと思って帰りました。

 

── 当時、周りの方の反応はいかがでしたか。

 

本橋さん:「行っておいで」というような良い反応はなかったですね。チーム青森からトリノとバンクーバーオリンピックを出させてもらったので、そのまま活動してほしいと思ってくださっていたのはありがたかったのですが。2大会出た後で、地元に戻ると決断をしたので、もしかしたら青森の方に「裏切ったと思われたかな」という思いがありました。

 

最近になってようやく「頑張ってるね!」という言葉掛けやメッセージをいただけるようになりました。「カーリング?何それ?」とは言われなくなってきたのもありがたいですね。行動や実績に対して、ようやくあのときの感謝のお返しができ始めているのかなと実感しています。

 

PROFILE 本橋麻里さん

本橋麻里さん

1986年生まれ。「チーム青森」のメンバーとしてトリノ、バンクーバーオリンピックに出場後、故郷で「ロコ・ソラーレ」を結成。平昌オリンピックでは日本カーリング史上初の銅メダルを獲得。現在は一般社団法人ロコ・ソラーレの代表理事を務めながら現役選手として活動。

取材・文/内橋明日香 写真提供/本橋麻里