講談を聞いたら涙が止まらず「すぐに入門を志願」
── 大学時代に話芸に目覚めたのですね。古典芸能への入門は厳しく、苦労の多いイメージですが実際はいかがでしたか?
京子さん:大学4年の7月12日、寄席で講談師の2代目神田山陽の高座を聞きました。
山陽が言葉を発さず客席を見回すだけで、そのたたずまいに感動して涙がとまらなくて。終演後すぐに木戸口(興行場の出入口)の方にお願いして楽屋にかけつけましたが、持病のため、リハビリ入院先から寄席に出向いた山陽はすでに病院へ帰った後でした。
翌日、お弟子さんが病院に稽古に行くというので連れて行ってもらい、その場で入門を申し出ました。
明治生まれの当時89歳の山陽もびっくり。紙を渡され、「3行で動機を書いてごらん」と言われたので、「芸は生き様」と書いたのを覚えています。その場で入門が認められました。
── その場で!?これはかなり特殊な入門例ではないかと。
京子さん:はい、講談界に激震が走りました。現役の女子大生入門者なんて珍しいから、「遺産めあてじゃないか」「師匠は大丈夫か」って(笑)。
だから入門後、まわりの目が冷たく、楽屋でもあたりが強くてすごくつらかったです。でも、私は病院で半分横になりながら稽古をつけてくれる山陽との時間が至福でした。
入門から1年3か月後、山陽が亡くなり、神田陽子に師事しました。師匠が替わるとその分、真打(しんうち)昇進が遅れますが、最晩年の山陽から学んだ日々は何ものにも代えがたいです。
── 2005年に28歳で前座から二ツ目に昇進し、孤高の詩人・桑原滝弥さんと結婚。講談師と詩人が結婚するなんてドラマみたいです。
京子さん:二ツ目時代は、噺の現場に行き、想像力を膨らませるなど研究しました。歴史テーマが多い講談のなかでも、おなじみの『清水次郎長伝』の背景を調べるために静岡や三重の荒神山、愛知の吉良町まで行ったりしましたね。
次郎長はヤクザの親分でしたが、維新後は旧幕臣救済のため、富士の裾野の開墾に乗り出し、社会事業家になったんです。意外でしょう?
このころから、 “へぇ~”と驚く話や町の由来など、興味ある題材を取材して、いつか講談のテーマになればなぁと文章を書きはじめました。
夫との出会いですか?仕事でコラボするための下調べで講談を聞きにきた夫が、詩集をくれて猛アタックしてきたんです(笑)。
“コンクリート詰めにされて海に沈む人が見た風景”を描いた、『無と無』という彼の詩にすごく感動しちゃって。