養豚業に取り組む宮治勇輔さん(44)は、慶應義塾大学総合政策学部(SFC)卒業で大手人材派遣会社勤務という経歴の持ち主。代々続く家業の農家、養豚業を父から継いで4代目となり、株式会社みやじ豚を起業。売上を7倍にし、成功した秘訣を伺いました。

「親父のあとだけは継ぐまいと思っていた」

── 2001年春に大学を卒業して入社したのは人材派遣大手のパソナだったそうですね。それはどうしてですか。

 

宮治さん:
大学の専攻では、ベンチャーの人材派遣会社について調べるなど人事関係企業を研究対象にしていました。そのため、当時はまだベンチャーだったパソナにも関心を持ったんです。

 

ベンチャーで働くなら社長の魅力で選ぼうと思いましたが、社長と一緒に働くわけではないので、就職活動中に出会った同期がいい人ばかりだなと思って選びました。また、ベンチャーなら若いうちから、責任ある仕事を任せてもらえるのではないかとも思いました。

 

── パソナではどんなことをされたのでしょう。

 

宮治さん:
人材派遣の新規プロジェクトの立ち上げに参加させていただくことが多かったですね。とてもおもしろかったです。

 

── いずれ実家を継ごうと考えて就職されたのですか。

 

宮治さん:
まったくそんなことは考えていませんでした。親父のあとだけは継ぐまいと思っていました。でも、いずれ起業したいとは思っていたんです。

 

早朝4時半や5時ごろから起きて、ビジネス書を読んだり、将来の自分のやりたいことを考えたりしているうちに、次第に興味関心が農業に移っていきました。

 

農業関係の本を買い漁って、読んでいくうちに、漠然と「起業」と思っていたのが「一次産業を、かっこよくて、感動があって、稼げる3K産業にする」という経営理念が湧き出て、神奈川の実家で、親父のあとを継ぎたいという気持ちに変わりました。

事業計画はバーベキューのみ

── とはいえ、辞めるのは大きい決断ですが、最終的にはどうやって決めたのでしょうか。

 

宮治さん:
辞めたときのビジネスプランは「バーベキューイベント」をしようというものだけでした。実家暮らしなら、当初は利益が月3万円ほどでも、最低限の生活はしていけるだろうと考えて「バーベキューを毎月やる」というのが事業計画のすべてでした。

 

バーベキューで盛り上がる人たちの様子。笑顔が溢れます(中央が宮治さん)

会社を辞めると父に話すと、最初は猛反対されました。「これからの農業をつくっていくんだ」と説得しても、「地に足がついてない」と怒られました。

 

しかし、ことあるごとに思いを伝え、何とか許しを得て、実家に帰りました。パソナは4年3か月勤めて辞めました。

 

偶然ですが、私が辞める2か月前に、弟も会社を辞めて帰ってきたんです。「これでは俺の居場所がないな」と思いつつ、それならば、生産現場を主に弟に任せて、俺は販売をやろうと役割分担して一緒に始めました。