ご当地アイドルとして知られるりんご娘などを誕生させた弘前アクターズスクール。青森県の地元にUターンした樋川新一さんが2000年に立ち上げました。大手自動車メーカー勤務を辞めて故郷に戻った樋川さんが、アイドル養成を始めた経緯とは──。

 

りんご娘。の王林
樋川さんがプロデュースしたりんご娘。りんごのTシャツを着たメンバーの笑顔が眩しい

地元・青森をエンタメで盛り上げたい

── 樋川さんは高校時代までを青森県弘前市で過ごし、その後、東京で大学に進学したそうですね。

 

樋川さん:
何もない田舎が嫌いで、都会に憧れて東京の大学に行きました。当時、青森には民放テレビ局が2局しかなく、マクドナルドもなくて、こんなに何もない青森からとっとと出て行きたいと思っていました。

 

故郷の弘前では親父が車の整備と販売をしていました。親父は好きなことをしたらいいと言っていたので、好きだったエンタメの世界を希望して、テレビ局や映画会社に就職したいと思っていましたが、願いは叶わず。そんななか、日産自動車に就職が決まりました。

 

── 東京で社会人生活が始まりましたが、故郷に帰る決断をしたのはいつ頃でしたか。

 

樋川さん:
都会の生活もしてみましたけど、毎日電車に揺られて通って夜遅くまで働いて。うちは自営業だったので、親父が家族と夕飯を食べていたこともあって「家庭を持ってこのまま東京にいたら、家族の時間が少なくてきっとむなしいだろうな」と思っていました。

 

同じ業界で働いていたこともあり、26歳のときに「即戦力になるし業務改革ができるから戻らせてくれ」と親父に言ったら「いいよ」と。一代でお袋と会社を作った親父のことは、経営者としても尊敬していました。

 

Uターンする人は、親が病に倒れて戻るというパターンが多いですが、私は親父が元気なうちに戻りました。親父が60歳のときに「お前に全部任せるから自分でやれ」と言われたのがちょうど30歳になる年でした。

 

王林
りんご娘のリーダーとして一躍有名になった王林さん。りんごを片手に、つなぎファッションも似合う

── 家業を任された年と同じ2000年に、「弘前アクターズスクールプロジェクト」を立ち上げました。

 

樋川さん:
地元にUターンしてからもむなしさは感じていました。弘前には土手町商店街といういちばんの繁華街があるんですが、私が高校のときよりもさらに閉める店が多くなって、シャッター街になっている。青森県は、人口減少や所得の低さだとか、短命だとか、本当にいろんな要素からイメージも悪いんです。

 

青森の愚痴を言う人はいるけれど、実際には何もしない人が多い。衰退していく青森を見ていくなかで、自分も一緒に愚痴だけ言っているのは全然楽しくなかったんです。何か楽しいことをして、人口流出を食い止めたい。青森からマイナスイメージをなくして明るい話題をつくりたいと思いました。

 

若い子たちと一緒に楽しみながら面白いことをして、自分の好きなエンタメで地域の活性化ができないかという単純発想で始めたのがアクターズスクールでした。

 

創立22年の弘前アクターズスクール。最近のレッスン風景