野村證券で女性初の総合職、MBAの取得、またゴールドマン・サックスでの活躍など華々しいキャリアを築いた後、2001年に夫婦でフォルシア株式会社を起業。現在は代表取締役社長 最高経営責任者(CEO) を務める屋代浩子さん。
キャリアウーマンとして証券業界の最前線を走り続けた屋代さんですが、これまでの仕事人生が決して順風満帆だったわけではありませんでした。会社員時代を振り返って「私はこの仕事をちゃんとやれるんだという自信がほしかった」と話す屋代さんに、キャリアと人生を振り返りながら、当時の思いをお聞きしました。
女性総合職は自分だけ「お茶出しもしないのか」と言われたくなくて…
── 野村證券では女性の総合職第一号として入社し、キャリアをスタートさせました。なぜ、野村證券に入社されたのでしょうか。
屋代さん:
本当は商社マンになりたかったんです。父が商社マンで、とても楽しそうに仕事していたんですね。物心ついた頃から自宅ではビジネスの話が飛び交っていて、私は「大人になったら父のようにバリバリ仕事がしたい」と思っていました。
ところが、私が就職活動をしていた時期は、どこの商社も女性の総合職を募集していなくて。世界をまたにかける仕事で、総合職がある企業はどこだろうと探して、見つけたのが野村證券でした。海外との金融商品の売買などは父がしていた仕事と似ている気がして、ダイナミックな仕事ができるんじゃないかと感じました。
── 入社後は大きな仕事にも携わったそうですね。
屋代さん:
株式、債券、為替などの原資産から派生して誕生した金融商品のデリバティブの部署に配属されたのですが、当時はまだ「デリバティブ」という言葉すらなかったので、とにかく手探りで。正直、自分がどんな仕事をしているのかよく理解できていなかったと思います。
ただ、野村證券が大型のユーロ債の引き受けをすることになったときは、私は債券の組成に関わっていたのですが、デリバティブチームの一員としてロンドンの調印式に出席する機会に恵まれました。社会人になって初めての海外出張だったので何をするにもワクワクしていたなかで、厳かな雰囲気に包まれた調印式の光景は今でも鮮明に覚えています。
── 社会人人生の初っ端から華々しい世界でご活躍だったわけですが、大変だったこと、悔しい思いをしたこともあったのでしょうか?
屋代さん:
30年以上前のバブル期の証券会社ですから、今では信じられないような常識がまかり通っていました。女性の総合職第一号ということで会社側も戸惑っていたのだと思います。調印式の際も「女性ひとりで海外出張に行かせるのか」といった議論が起こったり、私ひとりだけがタクシーで送迎されたり…足を一歩前に出すだけで問題になって。
当時はお茶を出すのも女性の仕事。私だけが「お茶を出さないのか」と言われないように、違和感を抱えつつお茶出しをしたり。驚きとともに息苦しさを感じる日々でした。
「まわりに振り回されない自信が欲しくて」MBAを取得
── 野村證券は2年で退職されたそうですね。その後、MIT(マサチューセッツ工科大学)に1年半ほど留学してMBAを取得されました。
屋代さん:
MBAの取得にチャレンジしたのは、「女性だから仕事を任せられない」といった周囲の価値観に惑わされずに行動できる自信のようなものが欲しかったからです。それに、野村證券時代は、自分が任された仕事についてしっかり理解して関われていたか、正直自信がありませんでした。デリバティブへの理解を深めて自信を持って仕事がしたかったんです。
野村證券での仕事にはやりがいはあったけれど、「女性の総合職第一号というだけで何もできない生意気なやつ」と見られるポジション。その肩書に囚われる日々から抜け出し、男性と同じ自然体のなかで仕事ができる人間として一目置かれたかった。そのためにはどうすればいいかを考えて、まずはまわりの人の目ではなく、自分自身が「私はちゃんとやれる」という自信を持つためにMBAの取得を目指しました。
── 帰国後はゴールドマン・サックスに入社し、8年間在籍した期間は、デリバティブを軸にキャリアを蓄積されたとか。当時はどんな思いで働いていましたか?
屋代さん:
外資系企業では男女関係なく成果を求められるので、甘えがいっさい許されません。最初から「とにかく稼いで」と上司から言われ、「どうやって稼げばいいんですか?」と戸惑ったことを覚えています。
「稼がなければいけない」という強烈なプレッシャーのなか、大きな達成感を得られる仕事も経験して、大変だったけれど充実していました。何か国もの人たちと時差を超えてビジネスができ、とてもエキサイティングな経験でした。
オーバーワークに悩むなか、次女が病気で入院
── ゴールドマン・サックス時代には、お子さんを2人出産されています。野村證券時代に出会い伴侶となられた屋代哲郎さん(現COO)は、屋代さんより一足早くMBAを取得し、外資系証券会社に入社されたそうですが、当時は夫婦ともに相当多忙だったとか。
屋代さん:
完全にオーバーワークでした。仕事が充実すればするほど家庭に大きなしわ寄せがきて、「なんとかしなければ」と思っていた矢先、次女が肺炎で入院してしまったんです。今のままでは家族を幸せにできないと痛感し、「働き方を変えよう」と決意しました。
夫とふたりで、自分たちが理想に思う仕事や働き方をあらためて考え直し、社会貢献できるビジネスを起こそうと、2001年にフォルシアを立ち上げました。
実はゴールドマン・サックスを退職した後、3人目の妊娠がわかって。3人目の子とフォルシアは同い年なんです。
周りにロールモデルは皆無…それでも「育児も仕事も諦めたくない」
── 同じ状況に置かれたら、「もう仕事を辞めたほうがいいのだろうか」と悩む人が多そうです。辞めるという選択肢はなかったのですか?
屋代さん:
子育ても仕事も諦めたくなかったんです。やりたいことを我慢するのではなく、両方楽しむためにどうすればいいか、必死に考えました。
当時、まわりには日本人でロールモデルになるような女性は皆無でした。たまたま双方の両親が健在で、定年退職していたので、日中の育児を全面的にお願いしました。「思うように育ててください」って(笑)。子どもたちはしっかりした良い子に育ってくれました。それぞれの両親には感謝しかありません。
海外では当たり前でしたが、日本ではまだ珍しかった家事代行サービスもフル活用しました。頼れる存在がいたことは本当に幸運だったと思います。
── 専門の家事代行サービスではなく、“普通の主婦の女性”を募集したとか。発想が斬新ですね。
屋代さん:
外部のサービスを利用する場合、どうしても「指示をする作業」が発生します。リビングを掃除してほしい、窓を拭いてほしい…って。当時の私にはそれすら負担でした。
そこで主婦の方を対象に「“私の家の主婦”をしてくださる方」を募集したんです。いつ来ていつ家事を始めてもいいし、何をやってもいい。仕事を終える時間も自由。「自分の家だと思って必要だと思う家事をしてください」とお願いしました。
そうしたら、掃除も料理も想像以上の仕上がりで!いつも帰宅するのが楽しみでしたね。「今日はどこをどうきれいにしてくれたのかな」とワクワクしながら棚を開けたりしていました。
「うちの子たちはかわいそうじゃない」と心のなかで唱え続けた
── 悩みをため込む前に、どんどん行動を起こして乗りきっていったのですね。
屋代さん:
はい。ただ、いちばんしんどかったのは「子どもがかわいそう」「自分の楽しみのために子どもを犠牲にするなんて」といった周囲の声でした。「うちの子たちは別にかわいそうじゃない」と思い込む作業は数えきれないほどやりました。
── そうやって仕事と家庭のバランスを取る中でどんなことを大切にしていましたか?
屋代さん:
とにかく諦めないことです。どんなことも「もう無理、できない」とは考えない。どうすれば切り抜けられるかということだけを考え続けました。
普通に考えると、社長業と3人の子育ては無理かもしれない。でも、そこで「無理」と諦めてしまったら前には進めません。いかに自分自身が納得できる形で前を向いていけるかが、いちばん大事だと思っていて。その強い気持ちがあったから、今も仕事と家族の生活を楽しめているのだと思います。
取材・文/高梨真紀 画像提供/フォルシア株式会社・屋代浩子さん