大手企業の多くにはまだ転勤制度が当たり前のように残り、子どもから「うちのお父さん単身赴任でいないの」との声が聞こえることも。母親からは「夫が転勤になったから仕事を辞めた」と言った会話も聞かれます。
そんななか、AIG損害保険株式会社は異例の社命による転居を伴う転勤制度の廃止をいち早く2019年に打ち上げて話題となりました。この取り組みは日本のAIGグループ全体を対象としており、うち転勤対象の社員が約4000人います。結果、同年の新卒応募は10倍にまで増加。3年かけて希望勤務エリアへの職員配置を行い、今年9月末までに、社員の勤務エリアを100%希望通りに達成しました。一方、転勤が可能と答えた社員には10月以降、約9割の家賃補助と月15万円の手厚い手当を用意しました。
実際に意図しない転勤廃止を実現できた鍵は。人事担当執行役員の福冨 一成さんと人事部の牧野 祥一さんにお話を伺いました。
「本当にできるの?」最初は社内から冷ややかな反応も
── 今年、NTTが2025年をめどに転勤や単身赴任をなくす働き方を目指していることが報じられ話題となりました。AIG損保さんはそのさきがけとも言える転勤廃止を2019年4月から取り組み始めました。3年経ち、一体どうなったのでしょうか。
福冨さん:
2019年4月から移行期間をおいて、今年9月末までの期間で希望勤務エリアへの異動を行いました。直近で希望変更をしたケースなどの特殊事情を除き100%、社員の希望通り、転勤を希望しない社員は希望勤務エリアに配属となりました。
── 転勤対象社員が約4000人いたなかで実現したことは驚くべきことですね。
福冨さん:
そうですね。最初は社内でも「そんなこと実現できるの」と冷ややかな反応でしたが、2018年に関西で実証実験をして、何十人か希望地に異動させたあたりから、これは本当らしいと現実味を帯びてきた感じです。
転勤しない人を配慮すると肩身が狭くなるから、転勤がないことを前提にした
── そもそもどうして転勤廃止を2019年の段階から打ち出したのでしょうか。
福冨さん:
AIG損保は2018年の1月にAIUと富士火災が統合してできたのですが、統合前に日本のAIGグループ内の人事制度を一本化する作業をしました。そして社員の働き方に着目したとき、これまで全国転勤が当たり前と思ってみんな働いてきていましたが、介護や子供の学校、ご自身の病気、がん治療などいろいろな異動制限が見えて、転勤できない方が増え始めて来ました。
最初は転勤できない方を配慮して転勤させずにいましたが、特別扱いをしているということで、本人が肩身の狭い思いをされるようになってきました。そこで逆転の発想で、そもそも大半の社員は転勤をしない、今のライフステージで転勤できる人だけがする、という運用にした方がいいんじゃないかとなったんです。
牧野さん:
そもそもこの施策は人事部内のコンペで出てきたものです。2016年の人事制度統合の際、元々一般職だった方に総合職に転換していただきましたが、それとともにいきなり全国転勤はさせられないので、今の職にとどまる間は全国転勤をさせないといった内容での覚書を交わしました。
移行措置としては当時歓迎されましたが、年数が経つと、この覚書が全国転勤できないかつての一般職だった女性たちの新たなキャリアへのチャレンジに対する障害となるのではないかと思い、女性活躍の観点から人材の掘り起こしにもなると思って出てきた発想なのです。
ビジネスの根幹に関わる制度、トップの本気度がものを言う
── 成功の要因はなんでしょう。
福冨さん:
企業カルチャーもあると思います。海外では拠点を変えて働くことはあっても、家族と離れる単身赴任は考えられず、それならば会社を辞めますというぐらいです。ダイバーシティ、つまり多様性を重んじる外資系企業として当社は単身赴任がごく一般的なことであるという日本独特の考え方に疑問を持つ役員が多かったことも社内で受け入れやすかった要因だと思います。
もちろん、「転勤を廃止したらビジネスが立ち行かなくなる」とある部署のリーダーが言い出したことはありましたが、みんなで目的を共有できたことは大きいです。ただし、トップが本気でやろうと思わないとボトムアップだけでは決してできない制度です。
よくあるパターンの育児に関する一部の制度を変更するとかではなく、下手をするとビジネス全部が回らなくなるリスクもあるものです。人をどう配置して働いてもらうか、全社員に波及する仕組みなので、覚悟を持って取り組まないと大変なことになります。
その点でトップの本気度が成功に繋がったと思っています。
モバイル社員とノンモバイル社員に分けて希望を調査
── 3年の間に挫折することなく、よく実現できたなと思いますが、どんな流れで取り組んで行かれたのでしょうか。
福冨さん:
パイロットとして最初に実施したのは、国内のエリアを13に分けて、2018年5月ごろ、どの勤務地で働きたいか全社員にアンケートを取りました。東京と大阪希望が多かったものの、希望に沿った人員配置をしても事業を継続できそうだという感触が掴めました。
また、同時に転勤の希望についてもアンケートを行いましたが、これまで通り勤務地が変わる働き方でも構わないという「モバイル社員」が25%(現在は約35%)ほどいて。なんとかなりそうだなと。
同じような職種でないとできない業務もあり、ビジネスに大きく影響しない範囲で、当初はできる範囲での異動と制度の検証を行いました。
その後、エリア区分を13から11に修正して、18年12月に本番実施のアンケートを行い、その内容にそって、19年4月から今年9月末までの期間に、勤務地を選択して働きたい「ノンモバイル社員」を希望エリアにほぼ100%配置することをしていきました。中には、福島と青森が一緒のエリアであるといった広いエリアもあるので、新幹線通勤も多く認めています。
ノンモバイル社員を優先的に希望エリアに配置し、空いたエリア内に、そのポジションに見合ったモバイル社員を配置するという形で進めていきました。一方で、希望の勤務エリア同士を入れ替えるだけで対応できたところもあります。モバイル社員にも希望勤務地は聞いており、可能な限りは配置できるようにはしています。
最初のアンケートは、終のすみかを希望地に書く人も
牧野さん:
アンケートは2回取りました。当初は社員も誤解してしまっており、現在のライフステージでの転勤可否ではなく、いわゆる引退後の終のすみかとして、「沖縄に住みたい」とか書いている人がいました。
アンケート結果を元に異動検討を進めていくと「実は今そこに住みたいわけじゃないです」という声があり、2019年夏ごろに改めて制度のコンセプトの説明会を全国で14回ほど実施し、19年12月に2回目のアンケートを取りました。説明会ではあくまで現在のライフステージにおいて転勤が可能か否か、どのエリアに居住したいのかといった選択をしていただく制度だと理解してもらいました。
転勤廃止というと誤解もあるかもしれません。社員の今のライフステージに応じて特定のエリアでのみ働くといった選択も、勤務地に制約はないといった選択もできる形にして、選択に応じて転勤するかしないか自身でコントロールできるようにしたというのが、今回の取り組みです。
── モバイル社員とノンモバイル社員の昇進や給与などに差はつくのでしょうか。
福冨さん:
いえ、当グループはいわゆる職務等級制度を採用しているので、例えば同じ職位の支店長ならばモバイルでもノンモバイルでも給与は同じです。役員は東京が多いですが、エリア内でも部長職ないしその一段階上の本部長職まで昇進も可能です。
異なるのは住宅に関するベネフィットです。仮に京都を希望で京都に異動された方には住宅手当は支給されません。モバイル社員も希望エリアに配属されると同様ですが、それ以外のエリアに配属された場合は約90%の会社負担となる住宅手当が支給されます。
また、今年10月からモビリティ手当を新設しており、10月1日以降の異動でモバイル社員が希望エリア外へ異動となったケースでは月額15万円が支給されます。それは家族と離れて暮らしている場合は帰省に使ったり、若い人ならば好きなことに使ったりしてもらえればと思っています。
モバイルとノンモバイル社員の分布については年齢による傾向はありませんが、女性の9割がノンモバイルを選んでいます。子供の教育などもありますが、歴史的にみて一般職で入ってこられた方もいるので、元々転勤が前提ではなかった方も含まれるからかもしれません。
新卒応募が10倍に
── 約4000人の希望エリアを聞くとは人事部がパンクしそうな気がしますが。
福冨さん:
人事部主導の取り組みではありますが、基本的には営業や保険金支払い部門など各ビジネス部門でプランニングしています。ただ、最初は転勤を無くし、勤務地を限定させることは、例えば営業のパフォーマンスが高い大阪の人を長崎に送りたいと思っても勤務地の異動ができなくなるので、現場の抵抗感はかなりありました。
しかし、各部門の役員も含めた部長層を集めて、実際に自分たちの部下の異動をプランすると想定し、異動できるかワークショップをして、大丈夫そうだと感触をつかんでいってもらいました。
異動する社員は手厚いベネフィットを得られ、異動しない社員は希望勤務地で家族と暮らして働けるメリットができ、みんなのモチベーションが上がって会社としてもウィンウィンの制度だったと思います。新卒応募が2019年は10倍に増えましたし、影響はあると思います。
人事制度をシンプルにすることが重要
── 他社でも導入する際に役立ちそうな成功の秘訣はありますか。
福冨さん:
他社の方からもよく問い合わせをいただいており、うちとしても全国の企業で導入してもらわないと我々の事業所が存在しない地域にパートナーが転勤するケースでは、従来と同様に辞めなければならない人が出るので、全国転勤の仕組みは早く無くして欲しいと思っています。
これからの社会は昔のように全国転勤して、朝から夜まで働いて、という形では立ち行かなくなっていきます。その従業員側のニーズにどこまで会社が合わせられるかのチャレンジだと思っていて、その答えのひとつがこの取り組みだと思っています。
転勤がないと取引先と癒着などが起こると昔は心配されましたが、今は現金を扱うこともなく、コンプライアンスもしっかりしているので起こらないと思います。
必ず他社の皆さんに申し上げるのは、統合前の人事制度の調整の際、グループ内で雇用形態が72もありましたが、それを4つにまとめたことです。そのほぼ大半がノンモバイル社員とモバイル社員の総合職社員です。雇用形態が多いと、人事制度がとてもやりにくいので、転勤のない会社、制度を作る前にまず人事制度をシンプルにすることが重要だと思います。
── まさにこの10月から本格運用が始まったんですね。
福冨さん:
そうですね。まさに本格運用が始まったばかり。不具合が出てくるかもしれないので、そこも正面から受け止めてブラッシュアップしていくという覚悟です。
取材・文/天野佳代子 写真提供/AIG損保