前回、三世代同居の祖父母から孫たちへ語り伝えるものとして、東京大空襲で焼け出された義父の経験をお話ししました。
今回は、満州生まれの義母の話です。これまた、教科書で読む戦争のお話とはひと味違った実体験で、若い世代の我々には想像のつかないことばかりです。
衰弱死した赤ちゃんを思い出して泣く父
義母の父親は満州鉄道で働く、いわゆる満鉄マンでした。
終戦前まではなかなかの高給取りだったそうです。写真だけで見合いから結婚まで決めた妻を日本から呼び寄せ、3人の子どもにも恵まれて、当時の満州国の首都、新京(現在の中国の長春)で、順風満帆な暮らしをしていました。
しかし終戦でその生活は一転。一家で日本への引き揚げの逃避行をたどります。
引き揚げ当時、義母は3歳。上には6歳の兄、そしてまだ1歳にもならない赤ん坊の妹がいました。
義母本人に引き揚げ当時の記憶はないものの、凄惨な引き揚げの途については両親から繰り返し聞かされて育ったそうです。
やっとの思いで家族全員が日本への船に乗り込んだのはいいものの、まだ乳飲み子の末娘は、満足な食べ物もない中で母乳が不足し衰弱してしまいます。
一日千秋の思いで日本上陸を待ち望んでいたにもかかわらず、船内で伝染病が発生。
もう日本の地は目の前に見えているというのに、義母たちの乗った船は上陸を許されずに数週間港に留め置かれたというのです。
そのため、やっとの思いで上陸できたと思ったら幾日もたたずに赤ん坊だった妹は亡くなってしまいました。
義母がよく語るには、
「父は厳しい人だったけど、お酒が入るとよく末娘のことを思い出して泣いていた。諦めて現地の人に養子にやっていればとか、もっと早くいい病院にかからせてやったら助かったかもしれない、と嘆いていた」
とのこと。
幼子を3人も抱えての引き揚げの困難さを思えば、責められることではないと思うのですが、親としては後悔を拭い去れないだろうこともよくわかります。
義母の父は、孫やひ孫に囲まれて百歳近くまで天寿をまっとうしました。今では空の上で、長年の心残りだった末娘との再会を喜んでいるかもしれません。
実体験からくる「誰にでも親切に」という教訓
義母が幼いころから両親に繰り返し聞かされた引き揚げのときの記憶に、もうひとつ印象的なものがあります。
それは、
「終戦前から、日本人だと威張って現地の人にふんぞり返っていたり、虐めたりしていた人たちは、いざ引き揚げようとしても恨みをかっているから、誰も味方してくれない。
それどころか家財道具を略奪されたり、ひどいときは殺されたりした。
日頃から現地の人も日本人も分け隔てなく親切にしていた人は、いざというときにかくまってもらったり逃げる手助けをしてもらえた」
というもの。
もちろん、時代の情勢はそんなにはっきりと善悪で語れるようなものではなく、現実はもっと混沌としていたと思います。
ですが、少なくとも実際に引き揚げを体験した義母の両親にとっては、因果応報というものの存在を実感するには充分だったようです。
私から見ても義母は世話好きなお人よし。大きな地震があるとすぐにご近所のひとり暮らしのご老人の様子を見に飛んでいくような人です。
こうした義母の性格の根底には、幼いころから身に染みた「誰にでもなるべく分け隔てなく親切にするべきだ、いつ自分が助けられる側になるかわからない」という教訓があるのではないかという気がしています。
満州育ちの義母によるひんしゅく発言
義母自身の記憶は、父の実家である福島の田舎へ引き揚げてきたときからが本番です。
都会から田舎へ疎開した義父は楽しかった思い出しかないとのことでしたが、義母はまるで逆。
周りは山林と畑しかなく、夜になればヒキガエルの鳴き声の大合唱になる東北の山間部での暮らしは、満州の首都、新京で育った義母とその兄には耐えがたいものだったようです。
「こんな田舎いやだ、満州に帰ろう」と泣いては、農家の後継ぎになると決めた父を困らせ、周りの親類のひんしゅくを買っていたそうです。
そう、義母の生まれ育った新京というのは、当時では大都会。義母とその兄はすっかり都会っ子だったというのです。
先代の生きざまに思うこと
こうした当時の感覚も、歴史の教科書からはなかなか読みとれないもの。
現代に生きる我が家の子どもたちも、身近な家族の体験を聞くことで多くを学んでくれるのではないか、と期待しています。
現代に生きている人ならではの困難は、たくさんあります。
しかし、不便な暮らしを改善しようと、必死で毎日働いてきた義父母やその両親の世代があったからこそ、今の私たちの比較的平穏な暮らしがあるのだ、ともしみじみ感じます。
私たちも少しでもよりよい世界をのちの世代に残さなくては…と改めて実感する日々です。